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ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る
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印刷2024/08/30 07:45

インタビュー

ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

 元「ログイン」「ファミコン通信」編集長である塩崎剛三氏の書籍「198Xのファミコン狂騒曲」が2024年8月31日に出版される。この本では,「ログイン」のいちコーナーから始まったファミコン通信(以下,ファミ通)が,週刊誌として刊行されることや,リメイク版が発売された「オホーツクに消ゆ」など,さまざまなムーブメントが作られていく様子が語られている。

 4Gamerではこの書籍の発売を記念し,塩崎剛三氏と世界初のファミコン誌である「ファミリーコンピュータMagazine」(以下,ファミマガ)の元編集長である山本直人氏との対談を掲載する。マイコン(パソコン)雑誌から家庭用ゲーム機の雑誌へ移る……というよく似た経歴の両氏が,ファミコンブーム前夜,そして「ファミ通」と「ファミマガ」がしのぎを削った日々を語る。

山本直人氏(さあにん,写真左)。「ファミリーコンピュータMagazine」の元編集長。「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」など,ファミコン初期の攻略本を手掛け,そのフォーマットを確立した。1980年代前半のテレビゲームの想い出を綴った同人誌「我が青春のテレビゲーム」をシリーズ頒布中(COMITIA150,RETRO GAME SUMMIT Lv.3で第3集を頒布予定)
塩崎剛三氏(東府屋ファミ坊,写真右)。パソコン雑誌「ログイン」の副編集長,「ファミコン通信」の編集長として知られ,2024年8月31日に「198Xのファミコン狂騒曲」を出版予定。パソコンから家庭用ゲーム機の雑誌編集へと転身し,ファミコンブームの先駆者として,数々のムーブメントを生み出した
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ファミコンブーム前夜,そして「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」と「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」


4Gamer:
 よろしくお願いします。まずはお二人がゲーム業界入りしたきっかけについて聞かせてください。

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塩崎剛三氏(以下,塩崎氏):
 僕は「スペースインベーダー」のブームがきっかけですね。大学1年の頃にハマってしまって,あまりにもお金を使ってしまったんです。ちょうど「ベーシックマスターレベル2」というマイコンが20万円ちょっとで出ていたから,「スペースインベーダー」みたいなゲームをプログラミングすれば,マイコン代くらいはすぐに元が取れるだろうということで早速購入しました。

 一生懸命マシン語を勉強してゲームを作ったんですが,画像はモノクロだし動きも良くないんです。1年ほどあとにカラーの「PC-8001」が出たので, ベーシックマスターレベル2のプログラミングコンテストに応募して5万円ほどの賞金をいただき,購入資金の足しにしました。

4Gamer:
 マイコンを手に入れて,すぐにマシン語でプログラムを組まれたんですね。

塩崎氏:
 あのころのBASICなんて,使い物になりませんでしたから(笑)。「スペースインベーダー」のインベーダー5匹×11列を動かすだけで2〜3秒もかかるんですよ。

4Gamer:
 しかも,インベーダーを描くにも,今はなき「グラフキー」を押して出てくる記号を組み合わせなければいけない。

塩崎氏:
 PC-8001ではハル研究所から出ていたPCG(プログラマブルキャラクタージェネレーター)が増設できたので,そうした苦労もなく,自分でキャラクターをデザインできました。これを覚えると,どんなゲームでも作れるわけです。例えば「ギャラクシアン」を再現するにしても,敵の飛行ルートをあらかじめテーブルとして持たせておけばその通りの軌道で飛びますし。何でも作れるということで,あの頃はちょっと無敵状態でしたよ。

4Gamer:
 「スペースインベーダー」に1日あたりどれくらいの金額を使っていましたか。

塩崎氏:
 9990点でカンストできるようになってからは3〜400円で済みましたけれど,それまでは毎日,数千円使っていました。あの頃は中野ブロードウェイにいいゲーセンが一杯あって,よく通ってましたね。パチンコ屋から駅に向かうまでの間に4〜5軒もゲーセンが並んでいて(笑)。

4Gamer:
 山本さんのきっかけはどういうものでしたか。

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山本直人氏(以下,山本氏):
 僕はもともと情報誌を作りたかったんです。本当は漫画やTV番組を作る人になりたかったんですけど,漫画の才能はなかった。そして,TV局は東京の人でないとほとんど入れないと思っていて。僕は高知県高知市に住んでいたので無理だとあきらめたんですが,その頃に「ぴあ」を始めとする情報誌のブームが来て「なるほど,こういうものもあるのか」と,そっちを目指していくことになりました。

4Gamer:
 もともとはTV関連のクリエイター志望だったんですね。

山本氏:
 “ディスプレイ大好き人間”だから,TVに映っているものが好きなんですよ。子どもの頃からTVとマンガで過ごし,「ポン」が出たときもTVに映るものを自分で動かせることに衝撃を受けましたね。

4Gamer:
 その後「スペースインベーダー」が発売され,本格的にTVゲームのブームが到来します。

山本氏:
 「スペースインベーダー」が出たときは中学3年生だったので,なけなしのお小遣いで1日1回遊べたらいいほうでした。住んでいたのが高知なので東京みたいにゲーセンはないし,流行が伝播してくるのも遅かったと思いますよ。地元にあったのもタイトーの直営店だけでしたし,セガやナムコのゲームなんてほぼ見たことがない状態でした。

4Gamer:
 東京と地方の格差が大きな時代だったわけですね。

山本氏:
 漫画や雑誌と同様にTVゲームも代理店から店舗に流れるものであるということは,高校生の頃には理解していました。実家がパチンコ店をやっていたんですが,親がこうした部分に疎かったので,「景品交換の窓口にしている喫茶店にインベーダーというものを置きたいがどうすればいいんだ」と聞かれたことがありましたね。タイトーの営業所を教えて,リースの収入は6:4か7:3だよって(笑)。駄菓子屋にすらゲーム機が置かれていなかったような土地でしたから,すごい数の人が見物に来て,コインタンクもたった2日で満杯になりましたよ。入荷したあとはもうフリープレイでやり放題でした(笑)。とはいえ,ブームも1年くらいで終わりました。

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4Gamer:
 TVゲーム自体が物珍しかった頃,山本さんは学生なのに現場で使う仕組みに注目されていた。アンテナが高いというか,着眼点が違う高校生だったわけですね。やがて塩崎さんは「ログイン」,山本さんは「テクノポリス」というマイコン誌に関わることになります。

山本氏:
 当初の「テクノポリス」はハードウェアも扱うマイコン誌的な方向性でしたが,ゲーム誌寄りになったのは「ログイン」の成功と,ハードウェアに興味がある人も減っていたという事情がありますね。アニメや漫画のキャラクターをマイコンで描くお絵かきにも力を入れていて,美少女ゲームを扱うのも早かったです。1982年にPSKから「ロリータ 野球拳」が出て,1983年にはエニックスのプログラムコンテストに入賞した槙村ただしさんの「マリちゃん危機一髪」も発売されてましたから,そうしたものが堂々と出てくる時期ではあったんです。

塩崎氏:
 「ログイン」の前身となる「ASCII 別冊ログイン」もハードウェア寄りでしたね。僕もその頃アルバイトだったんで詳しくは分からないですが,月刊化して4号か5号になったころに小島さんが編集長になって,ゲームに寄っていく流れになっていきました。

※小島さん:小島文隆氏。「ログイン」の元編集長。ハードウェア寄りだった同誌を,ゲーム誌寄りに方向転換した。「ファミコン通信」の初代編集長でもある

4Gamer:
 ハードウェア寄りからゲーム寄りの雑誌へ……という流れはかなり初期の段階から存在していたわけですね。やがてファミコンのブームが来ますが,お二人はそれをどのように見ていましたか? 当時の小学生からすると,サードパーティ参入以前の時点で,すでにクラスの“覇権ハード”になっていたという印象があります。とくに対戦ツールとしての「マリオブラザーズ」の存在が大きくて,三角ベースといった外遊びもするけれど,「マリオブラザーズ」の対戦で1日が終わるみたいなこともありました。

塩崎氏:
 ファミコンが出た当初,実はそれほど注目してなかったんですよ。NECのPC,AppleのAppleII,任天堂のファミコン……といろいろな機種がある中の一つという印象でした。
 ただ,その一つの手応えが段々すごくなってきた。あの頃のパソコン誌は月刊だったので,世の中の盛り上がりからは少し遅れ気味に反応することになってしまい,「ちょっとこれまずいんじゃないの?」とは感じてました。

4Gamer:
 それまでパソコンを取り上げていた雑誌で,家庭用ゲーム機のファミコンを取り扱うことに関し,読者が違和感を覚えるようなことはあったのでしょうか?

塩崎氏:
 それはなかったですね。「ログイン」の場合は“ディスプレイに映るものは全部やる”というスタンスで,ファミコンの前にも「ゲーム&ウオッチ」など,いろいろなものを取り上げてましたから。我々スタッフとしても,マイコンからゲーム機への過渡期として,出るべくして出たものがファミコンという認識でした。ファミコンのゲームですごい反響があったのは「ゼビウス」からですね。

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山本氏:
 「サッカー」を始めとしたスポーツゲームで子ども人気は獲得していたけれど,一般層にまで火が点いたのは「ゼビウス」だったと思います。アーケードゲームを遊んでいる人間からすると,アーケードゲームがファミコンに移植されても,キャラが違う,ステージが足りない……という中で,アーケードゲームそのままのものがきたのが「ゼビウス」でした。天地がひっくり返ったような衝撃でしたね。

塩崎氏:
 「ゼビウス」もアーケード版とファミコン版は違うんですけど,遠藤さんは上手いんです。縦画面のアーケード版を横画面のファミコンに移植する際も,敵の攻撃を変えたりしてアーケードと同じプレイ感を再現していました。すごいですよ。

※遠藤雅伸氏,「ゼビウス」(1983),「ドルアーガの塔」(1984)などの生みの親として知られるゲームクリエイター

4Gamer:
 当時はいろいろなパソコンに「ゼビウス」が移植されましたが,アーケード版そのままというものはなかなか出てきませんでした。「ゼビウス」は一種のベンチマークであったし,塩崎さんのお話にあった並列に並んでいたいろいろな機種からファミコンが抜きんでた一つのきっかけにはなったと思います。塩崎さんと山本さんが感心した,最初のファミコンソフトは何でしょうか。

塩崎氏:
 僕はゲーム好きだったのでいろいろなソフトに感心してましたね。一杯遊んでいたのは「テニス」や「ベースボール」です。「ログイン」の中でもゲーマーでしたし,僕を基準にして何を取り上げるかを決められていたところはあるので,なるべく多くのものに触れるようにはしていました。1983〜1984年は日本というよりアメリカから来るゲーム機を中心に触っていた感じで,ベクタースキャンのゲーム機なんかは出来映えが良かったですよ。

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山本氏:
 コモドールの「マックスマシーン」とかいろいろな機種が日本に入ってきた時期ですよね。その頃の僕は19歳で上京したんですが,秋葉原の店頭なんかもそれ一色になってたのを見ました。

塩崎氏:
 山本さんはその2年後に「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」を出してベストセラーになるわけですからすごいですよ。

4Gamer:
 塩崎さんは「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」,山本さんは「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」というように,ファミコン初期の攻略本を作って大きなヒットになっています。

塩崎氏:
 ナムコが「ドルアーガの塔」のファミコン版を出すことを知って「田尻さんの本があれば,攻略本を作れるじゃないか」ということに気付いたのがきっかけです。
 「ログイン」では1984年の頭あたりから「ビデオゲーム通信」というアーケードゲームを扱う連載がスタートしてました。野々村文宏(雷門ビデ坊)さんという,新しい遊びにアンテナを張っている人がいて,TRPGを始めとするいろいろな記事を書いていたんですが,その一環としてゲームフリークの方々を「ログイン」編集部に連れてきたことがあったんです。編集部にも彼らが作った「ゼビウス1000万点の解法」を読んでいる人がいて,そのときに「ドルアーガの塔」の話も出ていましたね。

※ゲームフリーク:「ポケットモンスター」の生みの親として知られる田尻智氏が作ったサークル。田尻氏が一人で作ったコピー誌からスタートした。「ゼビウス1000万点の解法」は,現マトリックス代表取締役の大堀康祐氏が作った攻略同人誌で,のちに田尻氏のゲームフリークに販売を委託した。このあたりの事情は,「マイコンBASICマガジン」創刊編集長である大橋太郎氏と大堀氏の対談に詳しく記載されている


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 伝説の同人誌「ゼビウス 1000万点への解法」の著者として知られるマトリックス代表取締役・大堀康祐氏と,「マイコンBASICマガジン」創刊編集長・大橋太郎氏による対談記事をお届けする。40年の時を超えて再びタッグを組んだ二人が,黎明期のゲーム業界のあれこれを語る。

[2024/02/06 12:00]

山本氏:
 その頃は「ドルアーガの塔」が流行して一通りの解法をみんなが知っていましたから,僕も1日1回クリアするということをしていました。田尻さんの本が出たのが1985年の4月か5月くらいでしたね。

4Gamer:
 「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」は,値段が300円と安いのも印象的でした。

塩崎氏:
 あの本のせいで,その後の攻略本の価格が決まったんじゃないかな。山本さんの「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」が300万部売れても,安いからあんまり利益が出なかったんじゃない?

山本氏:
 実はすごく利益が出てるんですよ。任天堂のロイヤリティもなかったし,編集部のアルバイトたちが原稿を書いているから,原稿料も印税もほぼゼロ。装丁も「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」のパクリですし,同じ棚に入れてもらおうというのが基本的な戦略でした(笑)。

塩崎氏:
 サイズも完全に同じですよね(笑)。こっちはナムコにロイヤリティを払いましたよ(笑)。

4Gamer:
 「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」は記録的な売上となりましたが,現場にいていかがでしたか?

山本氏:
 「本を刷っているのかお札を刷っているのか分からない」というのは,ああいうことをいうんだろうなと思いました。年末に向けてゲームの売れ行きがさらにアップし,重版がかかって毎日5000冊くらいを刷っていましたね。取り次ぎも「あるだけくれ!」という感じでしたし。

4Gamer:
 山本さんの「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」が売れまくる一方,塩崎さんの「ログイン」は「ドルアーガの塔」のように攻略本を出すことはせず,本誌で大々的な特集を組まれています。

塩崎氏:
 「山本さんたちが攻略本を出すなら,『ログイン』は2か月連続特集で全部の面を公開してやろう」なんて思っていましたよ。特集の際は「ログイン」の部数も2倍くらいになりましたから,もう本当にすごかった。

4Gamer:
 攻略本を出した山本さんと,「ログイン」本誌の特集,それぞれの戦略で「スーパーマリオブラザーズ」に向かい合ったということですね。

塩崎氏:
 そうです。「ドルアーガの塔」の攻略本がある程度成功したので満足していたこともあり,今度は「ログイン」本誌の部数を伸ばそうという考えでした。当時の上司は「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」は売れたけど,全然儲からなかったといっていたくせに,「スーパーマリオの攻略本なんてどうかな」と打診してきましたよ(笑)。その通りにしていたら,また違った結果が出ていたかも知れなかったですね。再び攻略本をやるようになったのは,1990年を過ぎて余裕が出てきてからのことですから。

山本氏:
 「スーパーマリオ」については他社の攻略本も本当によく売れていました。

4Gamer:
 当時は本屋さんに行くと,「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」と同じサイズの攻略本が棚にみっちり詰まっていましたね。

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「ファミマガ」「ファミ通」「マル勝」「必本」……4大ファミコン雑誌の時代


4Gamer:
 その後1985年には山本さんの携わる「ファミリーコンピュータMagazine」が日本初のファミコン専門誌として創刊され,1986年には「ログイン」の1コーナーであった「ファミコン通信」が独立創刊します。
 同じ年に「マル勝ファミコン」(以下,マル勝)と「ファミコン必勝本」(以下,必本)も出て,ファミコンブームの中でファミコン誌がしのぎを削り合う日々がスタートしました。ライバル雑誌の編集者同士の関係はどんな感じでしたか。

塩崎氏:
 交流もあまりなかったですし,仲は良くもなく,悪くもなかったです。メーカー主催の懇親会というかゲーム大会などがあって,そういった場で顔を合わせると話をするくらいの仲でしたね。みんなたまたまその編集部にいただけであって,いがみ合ってもしょうがないですし。敵対心はそんなに持ってなかったと思いますよ。初の「ファミスタ」大会は盛り上がりましたし,山森さんや小島さん,佐藤さん,井上さんたちの初代編集長が中心になって飲みに行く「編集長の会」なんてのも毎月やってましたから。

4Gamer:
 「編集長の会」ではどんな話をしていたのでしょう?

塩崎氏:
 あまり仕事の話はしてないみたいでした(笑)。僕も2回ほど参加しました。

山本氏:
 みなさんマイコン誌時代から同じ業界に関わっている方々ですからね。

4Gamer:
 当時は「ファミ通」「ファミマガ」「マル勝」「必本」で「4大ファミコン雑誌」というようないわれ方もされていましたが,塩崎さんと山本さんはお互いの雑誌に対してのライバル心はあったのでしょうか。

塩崎氏:
 そりゃありましたよ。“新情報はまず「ファミマガ」に出る”という状況は変えなきゃならない……とずっと思っていましたから。

山本氏:
 情報公開の順番については雑誌の発売日に関係してくる部分もあったと思いますよ。「ファミマガ」は第1・第3金曜日の発売で,「ファミ通」は完全隔週だったので,その関係で情報の公開もファミマガが先になることもありました。

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4Gamer:
 なるほど。今はウェブ上で毎日更新が当たり前ですが,当時は雑誌の発売日にも大きな意味があったわけですね。

山本氏:
 ええ,「ファミマガ」の発売日を第1,第3金曜日に決めたのは理由があるんですよ。当時,新作ゲーム情報の手綱を握っていた「ファミコン神拳」(週刊少年ジャンプ・第2週号),「コロコロコミック」(毎月15日発売)から,一定の間隔をおける最短解だったんですよね。なのでメーカー側も情報を出しやすかったんです。

塩崎氏:
 ファミ通編集部では水曜の夕方に「ファミマガ」を手に入れるルートを見つけて,新しい号が届いたら一斉チェックをかけてましたね。先に情報を出されてるようなところがあったら,そこから記事を作って差し替えれば,次の金曜日にはなんとか間に合う。発売週によっては,1週間遅れだったり2週間遅れだったりしました。

4Gamer:
 ギリギリのタイミングで勝負をしていたわけですね。土壇場で原稿を差し替えるといった手法はどこから取り入れたのですか。

塩崎氏:
 「月刊フレッシュジャンプ」のグラビアページをウチで受け持っていたことがあり,雑誌の作り方をいろいろと教わった成果でしょう。漫画誌の世界では漫画が落ちるのはよくあることで,その時のためにストックの漫画を何本も何本も用意しておくんです。だから「ファミ通」でもストックの記事はいくつも用意しておき,緊急差し替えをしても大丈夫なようにしておきつつ,「ファミマガ」に抜かれたときは記事を差し替えていったんです。

4Gamer:
 今は情報公開もメーカー主導の横並びになっていますから,本当のスクープというものはなかなかないというイメージです。

塩崎氏:
 創刊の頃は他誌を見て驚くことが一杯ありましたね。例えば,年末まで100本のゲームが出るとして,「ファミ通」で把握できていたのが80なのに,「ファミマガ」には100本載っていたなんてこともある。普段お付き合いのあるメーカーのはずなんだけど,業界ナンバーワンの「ファミマガ」に気を使って新情報を出してくれないからなんですね。
 そうなると慌ててメーカーに電話して,残り20本を「ファミ通」に載せるため原稿を差し替える。

4Gamer:
 今とは隔世の感がありますね。新作の情報はどこから手に入れていたのでしょう?

塩崎氏:
 「ログイン」の頃は「なんかこういうのを作ってるみたいだよ」っていう噂が流れてくるんです。メーカーに,こんな噂を聞いたんですけど……って確認して,取材に行きたいと申し込む。当時はゲームメーカーといっても十数社しかなかったから,毎日2〜3社に電話すれば充分という感じでした。

4Gamer:
 アンテナを高くして情報を集め,メーカーとしっかり連絡を取っていれば新作というスクープをものにできるのが「ログイン」などパソコン誌の時代だったわけですね。

塩崎氏:
 実はメーカー主導で情報が規制される体制が始まった瞬間に,僕と山本さんは同席してるんですよ。1989年頃,あるメーカーから4つのゲーム雑誌の編集長が呼ばれたことがあって,そこで「ウチのゲームの情報公開はこういうスケジュールでいくから」というやり方を言い渡されたんですよ。その後,同じやり方をするようなメーカーが増えていき,今の体制があるということですね。

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山本氏:
 最初の頃は雑誌が作る口コミの力が強かったんですが,ゲームの売上本数が増えると,立場が逆転したわけです。やがてメーカーのほうから「ウチのゲームを取り上げるのは何ページまでにしてください」というお達しも来るようになる。

4Gamer:
 業界にとって大きな転機ですよね。それまではゲーム雑誌のそれぞれが自由に特集を組めたものが,公開できる範囲やページ数まで決められたわけですから。

山本氏:
 それ以前にも,公開できる範囲をメーカーと相談するようなことは「ゼルダの伝説」でもありました。謎解き要素の強いゲームだったので,当時編集長だった山森さんと宮本 茂さんが相談して情報の出し方を決めたわけですね。

4Gamer:
 プロデューサー兼ディレクターという,作品の中枢にいる人と情報の出し方を決めていた,というのも今では考えられない話ですね。作品の受け入れられ方を作っていくということですし。そういえば,山本さんは「ゼルダの伝説」の取扱説明書を作っていますよね?

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山本氏:
 そうです。「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」を終えたあと,10月くらいに任天堂に行ったんですが,そこから11月には印刷にかからないといけないというスケジュールで作業しましたね。説明書に使われていたイラストは編集部で作ったものと任天堂の絵素材両方でした。例えば,リンクのイラストは任天堂のもので,バックに描かれている山は編集部で作ったもの,みたいに。

4Gamer:
 山本さんのお話からすると,メーカーから情報の出し方について意見されること自体は,4誌の編集長が呼び出された会合以前からあったわけですね。

塩崎氏:
 そうです。「ゼビウス」でも情報規制自体は存在してました。ソルの位置は掲載してよかったけれど,スペシャルフラッグは止めてほしいというお願いはされていましたから。……ただ,編集長4人が呼ばれてメーカー主導の体制を言い渡されるというのは,話が全然別です。

4Gamer:
 相談しながら記事を作っていくことと,方針を決められることの違いですね。

山本氏:
 ただ,我々雑誌編集としてもやり過ぎたところはあると思います。雑誌1冊の中で1/3ほどがそのゲームの特集で占められていたこともありましたから。

塩崎氏:
 それまでは,雑誌とメーカーが相談して公開範囲を決めていたので,交渉の余地はありました。雑誌のカラーとメーカーの担当者の組み合わせみたいなもので,同じゲームで記事を書いても雑誌によって全然違ったものができましたから,雑誌の個性は強かった。

4Gamer:
 「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」でもそうしたやり取りはあったのでしょうか?

塩崎氏:
 ありましたね。ナムコとしては「裏ドルアーガ」の宝箱の出し方を攻略本に載せて欲しくないという意向でしたが「クイズ形式ならいいでしょう?」と交渉したんです。最初は3階とか4階までしか載せられないという話だったところに,僕が「もうちょっと,もうちょっと」って食い下がって18階まで載せることに成功しましたよ(笑)。

※「裏ドルアーガ」
 ファミコン版「ドルアーガの塔」で隠しコマンドを入力するとプレイできるモード。宝箱の出し方が変化しているため,自力で探さなければならない


4Gamer:
 18階までというのも戦略的に決められた範囲だったんでしょうね。19階の「ブック・オブ・ライト」がないとフロアが真っ暗になるのに加え,出現条件も“クォックスに最大限まで伸びる火を吐かせる”という複雑なものでしたから,ここを隠せればゲームの寿命が短くなることもない。

塩崎氏:
 「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」のあとにナムコの担当者を口説いて,2か月後の「ログイン」で「裏ドルアーガ」の特集を組むことができました。

4Gamer:
 版元が持つメディアに情報が優先されてしまう,原作付きのキャラクターものゲームも大変だったのではないでしょうか。

山本氏:
 どちらかというと,メーカーのほうが苦労していた印象です。キャラクターものは版権によって「ページ数の規制」などがあるんですけど,ゲームを売るメーカーとしてはできるだけ大きく取り上げてもらって売上を伸ばしたいですから。そうした中,“記事のような情報が載った広告”を載せるようなこともありましたね。これなら広告なので規制に引っかからないわけです。また,ゲームによっては記事内でオフィシャルのイラストを使えないという規制がありましたが,この時もメーカーがオフィシャルのイラストを満載した広告を出していました。

4Gamer:
 メーカーと雑誌編集と原作の版元。それぞれの立場で雑誌を作っていったわけですね。塩崎さんの本と山本さんの本では,読者とのコミュニケーションの取り方も違っていましたよね。

塩崎氏:
 「ログイン」の場合は「リーダーズログ」というコーナーで投稿やプログラムを取り上げてました。ある時「読者コーナーをもっと面白いものにしよう!」ということで河野真太郎(河野マタロー)さんや金井哲夫(金盥鉄五郎)さん達が中心になって始めたのが「ヤマログ」です。これがブッ飛んだ方向性になり,「ファミ通町内会」へと引き継がれていったわけです。

山本氏:
 僕は「ファミ通町内会」の大ファンなんですよ。青山でお祭りがあるときにおみこしを担ぎに行ったんですが,楽しかったですね。酔っ払った小島さんが出てきたりもして(笑)。

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4Gamer:
 「ログイン」の読者コーナーからはプロの漫画家になった人もいますし,「ファミ通町内会」や「ゲーム帝国」は単行本化されています。ヤマログの方向性は一定の成功を収めたといっていいと思いますね。
 「ファミ通」の読者コーナーが盛んなのは,賞品と交換できる仮想通貨「ガバス」の存在も大きいんじゃないでしょうか。ガバスは雑誌にも付いてくるけれど,高額賞品と交換するには投稿を採用されるなどしないと手に入らない「メタリックガバス」がいるから,ハガキ職人たちのモチベーションも上がったと思います。そもそも,メタリックガバスはどういうところから発想したのでしょうか。

塩崎氏:
 メタリックガバスをいっぱい作っちゃったから,有効活用しようということでガバスの対象になるような記事をどんどん増やしていったんですよ。

4Gamer:
 逆にいえば,メタリックガバスさえ手に入れば,高額賞品がもらえる。「ゲーム帝国」など「ファミ通」の読者コーナーで,「ガバスください!」という投稿が多かったのも分かります。偽札ならぬ偽メタリックガバスを作るような不届きものはいたのでしょうか?

塩崎氏:
 あり得ないような額のメタリックガバスが送られてきたことがありましたね。調べてみると,出所はどうやら印刷関係らしい……と(笑)。

4Gamer:
 どうしても欲しいモノがあるお子さんが拙い筆跡で「がばす」と書いて送ってくる,みたいな微笑ましいエピソードを想像していたら,ガチの犯罪じゃないですか。どう対処したんですか。

塩崎氏:
 詳しくは忘れましたが,きちんと対処した記憶はあります(笑)。

4Gamer:
 「ファミマガ」のほうはどういう方針で読者と関わったのでしょう?

山本氏:
 “読者と関わるページを作らない”という方針もあり,ウチには特徴のある読者コーナーはなかったですね。読者とやりとりしてるのは「ハイスコアルーム」くらいのもので,「ウル技」も読者からの投稿ではあるものの情報収集という色彩が強いコーナーでしたから。

4Gamer:
 それはどういった理由でしょうか。

山本氏:
 立ち上げからしばらくは編集経験のあるスタッフがいなかったためです。アルバイトの子たちに読者コーナーを任せると,子どもさん相手の本なのに何を書いてしまうか分からない,みたいな。

4Gamer:
 それこそ小学校低学年も読んでいましたしね。読者とのやりとりでも軽はずみなことは書けないし,アルバイトに任せられないというのも分かります。読者からのハガキは読んでいましたか?

塩崎氏:
 アンケートハガキは全部読むようにしていて,皆さんが何を書いているか楽しみでしたね。タイムラグはあるけれど,今のSNSに通じるところはあるのかも知れないです。

山本氏:
 月刊になってからは自分の仕事が忙しくなってきたのに加え,届いたハガキはまず集計業者に回るから,あまり見てなかったですね。ただ,集計業者から結果が出るまでに少し時間がかかってしまうから,「欲しいソフト」や「面白かった記事」といった情報については,届いたハガキから何百通かを抜いて集計するためのソフトを自分で作っていました。テンキーに対応してて,片手で操作するヤツを。

塩崎氏:
 「ファミマガ」は読者層が若いから,まだ面白いことを書けないのかもしれないですね。その点こっちは中高生の読者がメインだったから,いろいろと書いてくれましたよ(笑)。

4Gamer:
 それぞれの雑誌のカラーが色濃く出ているわけですね。
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