連載
ロンドンの霧に包まれた謎の武術を解き明かす「シャーロック・ホームズの護身術 バリツ」(ゲーマーのためのブックガイド:第22回)
「ゲーマーのためのブックガイド」は,ゲーマーが興味を持ちそうな内容の本や,ゲームのモチーフとなっているものの理解につながるような書籍を,ジャンルを問わず幅広く紹介する隔週連載。気軽に本を手に取ってもらえるような紹介記事から,とことん深く濃厚に掘り下げるものまで,テーマや執筆担当者によって異なるさまざまなスタイルでお届けする予定だ。
We tottered together upon the brink of the fall. I have some knowledge, however, of baritsu, or the Japanese system of wrestling, which has more than once been very useful to me. I slipped through his grip, and he with a horrible scream kicked madly for a few seconds, and clawed the air with both his hands. But for all his efforts he could not get his balance, and over he went.
こちらは1903年に発表された,名探偵シャーロック・ホームズ・シリーズの短篇「空き家の冒険」の一節だ。以来この謎の技・バリツの正体をめぐり,一世紀にわたって議論が繰り返された。コナン・ドイルの創作? いや,武術(Bujutsu)が訛ったものだろうか。あるいはブラジルで人気の総合格闘技バーリトゥード(Vale tudo)のことでは? いやいや,バーリトゥードは1920年代より前に知られてはいなかった……などなど。そんな状況に一応の決着が着いたのは,ようやっと2000年代になってのことである。
かつて英国の月刊誌「Pearson's」に掲載され,世間から忘れられていたエドワード・W・バートン=ライト(Edward William Barton-Wright)氏の記事が,Webサイト「Electronic Journals of Martial Arts and Sciences」にて2000年2月から2002年11月にかけて再公開された。それがすなわち,
- 1899年1月号:強い男に見せるには
- 1899年3月号:新しい護身術1
- 1899年4月号:新しい護身術2
- 1901年1月号:杖を使った護身術1
- 1901年1月号:杖を使った護身術2
の5つの記事で,これらをまとめて編集/翻訳したのが,今回紹介する「シャーロック・ホームズの護身術 バリツ」である。
「シャーロック・ホームズの護身術 バリツ」
著者:エドワード・W・バートン=ライト
訳者:田内志文
監修:新見智士
版元:平凡社
発行:2024年3月19日
定価:2420円(+税)
ISBN:978458283955
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「シャーロック・ホームズの護身術 バリツ」紹介ページ
著者のバートン=ライトは,自身が考案したこの護身術を,上記の記事の3回目でバーティツ(Bartitsu)と称した。バートン式柔術(Barton-style Jujitsu)の略である。また同時期,英国紳士向けにソーホーで道場を開き,門下生を募っていた。
さらに1901年8月23日のロンドン・タイムズ紙でも「Japanese Wrestling At The Tivoli(チボリ劇場での日本式レスリング)」という記事で取り上げられたが,そのとき誤ってスペリングからTが抜け,バリツ(Baritsu)と書かれてしまったのだ。
「空き家の冒険」執筆時,コナン・ドイルはこの記事を参照してバリツと表記した。しかしこの1903年には,バートン=ライトは経営がうまくいかなかった道場を畳んで理学療法士へ転身しており,バーティツはすでに幻の武術と化していたのである。
これらの事実は,月刊誌「History Today」の2009年5月号に掲載されたEmelyne Godfrey氏の記事「Sherlock Holmes and the Mystery of Baritsu(シャーロック・ホームズとバリツの謎)」で指摘され,やっと広く知られるようになった。
遡って2002年には国際的なバーティツ協会(The Bartitsu Society)も結成され,研究だけでなく実践も盛んに行われるようになった。それを受けてか2000年代以降には,ゲームにもしばしばバリツが登場する。
例えば「モータルコンバット」シリーズの酔拳使いボー・ライ・チョー(Bo' Rai Cho)はバーティツの技を駆使するし,「アサシン クリード シンジケート」では,ゲーム中に達成できるトロフィーとしてバーティツが設定されている。「Fate/Grand Order」では,サーヴァントのシャーロック・ホームズがもちろんバリツ使いで,杖を振って戦う。「ストリートファイター6」では,初参戦キャラクターのJPが自身の技をバリツと称している。
謎の東洋武術として使い勝手がいいので,バリツは小説やコミックにもよく登場する。「黒執事」のタナカさんや,「ダンタリアンの書架」の焚書官ハル・カムフォート,アメリカではドック・サヴェジやシャドーなどの格闘系ヒーローがその使い手だ。
では,このバーティツ≒バリツとは,具体的にどんな体術なのだろう?
「空き家の冒険」のホームズは,組みつかれた状態からするりと抜け出し,相手のバランスを崩して勝利する。この動きは,崩しを主とする柔術に由来するように思える。
実際インド生まれの英国人バートン=ライトは,職を転々としながら世界じゅうを渡り歩いており,1895〜97年の3年間,神戸で寺島貫一郎より神傳不動流柔術および北辰一刀流剣術を学んでいる。並行して東京では,講道館において加納治五郎から柔道をも学んだ。1901年2月13日,ロンドン日本協会での講演「柔術と柔道」において,バートン=ライトは次ように述べている。
“Judo and jujitsu, which are secret styles of Japanese wrestling, (I) would call close play as applied to self-defence.”
実際バーティツの根本には間合いの概念があって,そこからニセの隙を見せて攻撃を誘ったり,最大の防御としての攻撃をしかけつつ,体を崩したりして相手を攻撃不能に持ちこむ。実に柔術的である。
バーティツのもう一つの柱が杖術だが,鍔(つば)を使って受ける戦闘用の杖ではなく,歩くための杖や傘など日常の道具を想定しているため,手を怪我しないよう,攻撃を捌くときは手元ではなく,杖の先端を用いるようになっている。これはフランスのピエール・ヴィニー考案によるステッキ術,ラ・カン(La canne)から学んだものだそうだ。
それ以外にも,英国伝統のボクシングのパンチと足さばき,フランスの足技サヴァットなどが取り入れられ,武術体系としてまとめられている。
よく考えると1887年の長編第一作「緋色の習作」において,ホームズはワトソン博士から「an expert singlestick player, boxer, and swordsman」,すなわち「腕のいい棒術使い,ボクサー,剣士」と評されており,すでにバーティツ使いの片鱗を見せていた。1890年の「四つの署名」,および1903年の「孤独な自転車乗り」ではボクサーとしての顔を覗かせ,1924年の「高名な依頼人」では棒術を駆使して乱戦を勝ち抜いている。
ガイ・リッチー監督の映画版はこれを踏まえ,2009年の「シャーロック・ホームズ」では主にボクシングがフィーチャーされたものの,宿敵モリアーティ教授と対峙する2011年の「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」では,ついに杖を主体としたバーティツ風の殺陣を披露している。
本書「シャーロック・ホームズの護身術 バリツ」には,そんなホームズが駆使したであろう術の基礎が解説されている。特徴的なのが,あらゆる体さばきに対して連続写真が掲載されているところで,説明文も短く論理的で分かりやすい。もちろん実践には修練が必要だろうが,ともかく読んでいるだけで理論として納得でき,わくわくする。シャーロキアンにも,知られざる格闘術に興味がある人にも,お勧めの一冊といえる。
なお先に紹介したバートン=ライトによる講演「柔術と柔道」は,その全訳が岐阜経済大学論集の42巻3号(2009年,小野勝敏訳)に掲載され,Web上に公開されている。補論として併読することで,より理解が深まるだろう。
バリツにまつわるホームズの物語を実読したければ,短編集「シャーロック・ホームズの思い出」の巻末に掲載された「最後の事件」,および「シャーロック・ホームズの帰還」巻頭の「空き家の冒険」を参照されたい。
既に版権が切れているので青空文庫などでも読むこともできるが,予算に余裕があるなら,詳細な注釈付きの河出書房新社の全集がお勧めである。より深い理解と満足感が得られるはずだ。
「シャーロック・ホームズの思い出」(リンクはAmazonアソシエイト) |
「シャーロック・ホームズの帰還」(リンクはAmazonアソシエイト) |
またバリツの謎が解き明かされていく過程が知りたい人は,ホームズ好きで知られる元・筋肉少女帯の大槻ケンヂ氏の「地上最強の格闘技バリツとシャーロック・ホームズの謎」(2002年に文庫化されたエッセイ集「わたくしだから改」に収録)がお勧めだ。読書と格闘の実体験を通して,バリツの謎との間合いを詰めていくさまは,実に小気味よい。なかでもホームズが,ライヘンバッハの滝でモリアーティ教授を下した技の具体的図解は白眉であり,実に納得がいく。
さらに日本には,格闘家としてのホームズを描いた傑作がある。多くの架空戦記ものを世に送り出した伊吹秀明氏の短編集「シャーロック・ホームズの決闘」がそれで,同書にはホームズがひたすら戦う5本の作品が収録されている。もちろん大槻ケンヂ氏のお墨付きだ。
実のところ筆者は伊吹氏のSF同人仲間であり,同書も上梓時に一冊譲ってもらって読んだのだが,そのときの頭がぶん殴られたような衝撃を,今さらながらに思い出しながらこの記事を書いている。バリツが再評価されつつある今だからこそ,再び注目したい一冊である。
「わたくしだから改」(リンクはAmazonアソシエイト) |
「シャーロック・ホームズの決闘」(リンクはAmazonアソシエイト) |
「シャーロック・ホームズの護身術 バリツ」紹介ページ
■■健部伸明(翻訳家,ライター)
青森県出身の編集者,翻訳家,ライター,作家。日本アイスランド学会,弘前ペンクラブ,特定非営利活動法人harappa会員。弘前文学学校講師。著書に「メイルドメイデン」「氷の下の記憶」,編著に「幻想世界の住人たち」「幻獣大全」,監修に「ファンタジー&異世界用語事典」「ビジュアル図鑑 ドラゴン」「図解 西洋魔術大全」「幻想悪魔大図鑑」「異種最強王図鑑 天界頂上決戦編」など。ボードゲームの翻訳監修に「アンドールの伝説」「テラフォーミング・マーズ」「グルームヘイヴン」などがある。
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