KADOKAWAから発売中のトレーディングカードゲーム「
ドレッドノート」の世界観を,小説形式でお伝えしていく連載企画
「Dreadnought Episodes」第7回をお届けする。この第7回では,
旭レイジと
恵比寿ユイの2人をはじめ,
アリス・フィフティベル,
マルコ・ベイカー,そして
常盤シャンティの,5名のキャラクターが登場する。
謎の影と対峙したレイジとユイは,ゲートを起動し,ついに神醒術士の力を発動させる。一方マルコは,犯行声明で指定された期日を間近に迎えた夜,一人の少女の襲撃を受ける。アリスは怪しい集団を見たという少年に,「カードゲームで勝ったら情報を教える」と提案されるのだが……。本来の目的を忘れたかのように,カード勝負にのめり込む姿や,“人生初”の公衆トイレに狼狽する様は,読んでいて思わず笑みがこぼれてしまうはずだ。
そして,「魔王の会」の会場として通されたクラブで,何か不穏なものを感じ取る常盤シャンティ。5人の神醒術士がそれぞれの運命と対峙するこの第7回,じっくりと読み進めていただきたい。
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旭レイジ 昼行燈のサボタージュ #4
あらゆる生物はなんらかの事象を認識したときに、そのデータを「SI素子」として大気中に放出する。SI素子は「情報の保管庫(ストレージ)」という別名も持つ、未だ研究中の物体だ。はるか昔から存在したと言われており、個々の事象に関してさまざまな情報を紐づけて無制限に蓄積し続けてきた。たとえば「火」は古い時代に「熱源」「光源」「黒煙を生むもの」「恐怖の対象」などと認識されており、「火」のSI素子はそれらの情報(性質)をデータとして溜めている。
これら幾多の情報を吸収して自己の脳内で逆順に構成しなおすことで、再び「火」として世界に具現化することができる技術者たちがいる。
彼らは神醒術士と呼ばれる。
さらに「火」は、やがて人類によって照明や調理などの用途で使われはじめた。そのときから「火」の保管庫には「便利な道具」という情報が加えられた。ある者にとっては「恐怖の対象」でありながら、ある者にとっては「便利な道具」。
神醒術士は、これら多彩な情報のなかから、自己にとって都合のいいものだけを拾いあげて再構築・具現化できる。つまり「火」を「道具」として操りながら、敵には「恐怖心」を与えることができる。
そして具現化する情報の強度は、その情報を認知している人数に比例する。
ゆえに、神醒術にとってもっとも都合のいい具現化の対象は、以下の条件を満たすものだ。
1.多くの人々が認知しているもの
2.人によって定義が異なるもの
こうして人々は、もっとも出力と応用力に優れた対象――神話を顕現するに至った。
「ち、面倒くせえな……相手が神醒術を使ってくるんなら、こっちも出し惜しみしてる場合じゃねえ。おいユイ、ひさしぶりにちょっとだけ、力出すぞ」
「はいはい、私はサポート役ね。了解」
ユイは不満そうな口調だったが、表情はそれほど嫌そうじゃない。授業の演習でペアを組むときも、だいたいこの役回りだ。
ふたりはそれぞれ、左耳と右耳につけた情報顕現サポートデバイス――ゲートを起動させた。
途端、光がレイジたちの身体から放たれ、周囲を異様な明るさで照らす。それは神醒術士が「世界の情報」と「自己の脳内」を結ぶことで起こる、SI素子の膨張・破裂現象――バーストだ。光の色は現す情報の種類によって異なる。レイジとユイは日本神話を顕現するため、その象徴である赤を放つ。
強い光がいくぶん落ち着いたとき、レイジの背後には巨大な情報体が現れている。
牛の頭と人型の肉体を持つ、身長2メートルを越そうかという筋骨隆々な神格。古い伝承に聞く、牛頭(ごず)の一族だ。荒々しく鼻息を吹き、手に持った大きな斧を振り回している。
レイジたちのような資格のない学生が学園外で神格を顕現することは一応、校則で禁止されている。そのため周囲に人目がある商店街やその近くで、こういった顕現をおこなうことは本来望ましくない。ただ、禁止といっても破っている生徒はたくさんいる。下校中の買い食いや自転車の2人乗りと似たようなものだ。
なにより今は後輩の安全が最優先だから仕方がない。
レイジは違反など気にもとめず、神格に命じる。
「《松阪》! あの気味わりぃストーカーをぶっつぶせ!」
前方を歩くヒカルの足元から伸びた影。その上には、まだ正体がいくらかぼやけてはいるが「なんらかの情報体」が立っている。情報体ならば、あのように情報の濃度を薄めることで背景の透過も可能だ。ヒカルが正体に気づけなかったのは、まだ高等部1年生で、そういった神醒術の応用に慣れていなかったからだろう。
その情報体はやがて、弱めていた情報濃度を本来の状態に戻し、姿をはっきりと構築する。同時に、松阪の猛進による接近を危険だと感じとったのか、ヒカルの影から飛び出した。レイジは目を凝らし、神格の全貌をとらえる。
人――ではない。四足歩行の、獣だ。
「黒い……ライオン?」
外見は獅子。しかし顔つきは人間に近い。尾はサソリ。体長は松阪と同じく、2メートルほどはある。なるほど、獣の神格に追われていたなら人間であるヒカルがどんなに全力で走っても撒けるはずがない。これがストーカーの正体と見て間違いなさそうだ。
GREAAU!と、恐ろしい声で黒獅子が唸った。松阪の両腕を前脚で押さえつけ、尾の毒針を喉笛に突き立てる。だがその針は松阪の分厚い肉にはばまれて、傷ひとつ付けられない。
「まともなぶつかり合いじゃ、重装型の松阪に分があるぞ」
松阪がブモォオオオ!と叫ぶ。神格は意志を持たないため、通常、自分の意思で声を上げることはない。しかし術士の心理的な昂ぶりに反応して、このように猛る場合もある。松阪は分厚い斧を黒獅子の腰に振り下ろす。
と、しかしその瞬間に、黒獅子の身体が黒いオーラに包まれ、刃を弾いた。
――覚醒。
神格のなかには、情報濃度を異常に高めることで一時的に力を増す種が存在する。さきほどまで貧弱だった黒獅子の針も巨大化し、松阪の首筋に食い込んだ。
「――ちぃ、面倒くせぇ小細工を使いやがって……!」
「レイジ、ここは任せて! 《神通力 金剛》!」
背後をふりかえるとユイが、両手で「印」を結んでいた。まるで墨で描かれた炎のようなエフェクトがユイの身体から立ちのぼる。
神格そのものではなく神格たちが使う能力などの「現象だけ」を抽出し、より使いやすい形で顕現する、瞬発性に優れた術というのがある。これらは神律(コード)と呼ばれる。神通力 金剛は、なかでも神格の攻撃力と防御力を瞬間的に強める神律だ。
松阪の肉体に情報が注がれて黒褐色の肌が赤みを帯び、まるで熱せられた鉄のように硬化した。身体の髄に響くような雄たけびとともに、松阪が黒獅子の首を掴む。上から力づくで押さえつけ、アスファルトに叩きつける。BUMYAU!とかわいそうな声を上げて、黒獅子は大人しくなった。
恵比寿ユイ よすがのレスポンス #4
黒い獅子の神格をレイジの神格《松阪》が捕獲した。けれどその直後、黒獅子はまるで大気に溶けるみたく消えていった。神格同士がぶつかった場合、敗北したほうは情報が極端に薄まり、霧散してSI素子に返るケースがほとんどだ。
ユイは急いで、周囲に他の神格がいないかを調べた。しかし見当たらず、黒獅子を操っていた神醒術士も、近くにはいないみたいだった。
レイジが肩をすくめる。
「どうりで。ずいぶん単調な動きをする神格だと思ったぜ」
あの黒獅子は、術士であるレイジではなく松阪だけを狙って攻撃をした。松阪に攻撃が通らないことを確認したあとも、ずっと毒針を突き付けていた。あまり賢い戦術とはいえない。おそらく「脅威が近づいたら反撃しろ」程度の簡単な命令だけが、あらかじめ与えられてたのだろう。神格を遠隔で操作する場合には、よくある手法だ。神格との五感の共有は距離が離れていてもできるが、複雑な命令は近くにいないとおこなえない。
「でも、覚醒したのには驚いたわね。単純な戦術だけど、遠隔操作であれをやるにはそれなりのスキルがいるはずよ」
「結局わかったのは、犯人が腕のいい神醒術士ってことだけか」
「ええ。どこにいるかは謎のまま」
「けどまあ、一応、この場での問題は解決できたとも言えるかな」
レイジが、ふう、と息を吐く。
ユイたちの当初の目的は、ヒカルにしつこく付きまとうストーカーの排除だった。そして、そのストーカーはちゃんと退治された。神格が倒されたことは使い手の神醒術士なら感じられたはずだ。このまま、二度とストーカーなんてしなければいいのだけれど。
「ありがとうございました、ユイ先輩! レイジ先輩!」
ヒカルが駆け寄ってきて、笑顔でユイの手を握った。
「いいのよ。今回はどっちかというとレイジのほうが頑張ってくれてたし」
精神力をより多く削られるのは、神格よりも限定的なかわりに強力な効果を呼び出す神律の顕現だが、体力の消費でいえば逆だ。神格は「生物」か「それに近い形状」をとるため、術士の肉体と情報が結びつきやすく、疲労に繋がる。
ヒカルがレイジに、同じく握手をしようとする。レイジは面倒くさそうに手を払う。
「いや、俺も別に大したことはしてねえよ。最後はユイの助けに頼ってサボったし」
ユイは微笑む。
微笑んでから、あれ? と疑問に思う。
「その言い方って、ひょっとしてあなた、私が対処しなくても自力でなんとかできたの?」
「ん? ああ……その、まあ一応な」
「えーなによそれ! せっかくサボり癖がなおったかと思って見直してたのに!」
「別にどっちでもいいだろ。そう小うるさいことは言うなよ、なんにしろ怪我もなく倒せたんだから」
ユイは腰に手を当て、ふんと鼻を鳴らす。――たしかに、レイジが少しでも人のために力を使おうとしたのはいいことだ。
きわめて小さな一歩だが、レイジに本気を出させて周囲に見直させる計画――「レイジいい子化計画」は、いちおう前進を見せたと言える。
ユイたちは、それぞれの無事にひとまず胸をなでおろした。商店街とは逆方向の上り坂から、ライトを灯したロードバイクが猛スピードでおりてきたのは、その直後だった。
「ちょーっとあんたたち、いま見てたよ! 神醒術でバトッてたでしょ!」
ペダルを全力でこぎながら降りてくる女性は、ユイたちより少し上の年齢だろうか? 首や右腕に刺青(タトゥー)を入れた、怖めの人だった。
ロードバイク乗りの女性は、レイジの前で急ブレーキをして止まった。アスファルトからはゴムが焼けるような臭いがした。レイジは焦って両手で身を庇い、頬を引くつかせていた。
学外で神醒術を使ってことで起こられるのかと思いきや、彼女はロードバイクを降りると、軽快に笑った。
「いやあ、あたしもあの黒いライオンに追い掛け回されてね。ムカついたから逆にとっ捕まえて、ぶっ倒してやったんだけど。同じようなことをしてる子に会うとはねえ!」
「え?」
ストーカーの被害者? 他にいたのか。
そのことには、もちろんユイも驚いた。
でももっと驚いたのは、あの黒獅子を捕まえることができたという、この女性にだった。
「お姉さんも、神醒術士ですか?」
透明なストーカーの正体を見ぬけた時点で、他は考えにくい。
それでも普通は、神格を捕獲をするには今回のユイたちのように、数人がかりじゃないと難しいはずなのだけれど……。
ロードバイクのお姉さんはにっこりと白い歯を見せ、自分の左耳につけた神醒術士用デバイス、ゲートを指さす。見たことのない型だった。
「趣味でね、いろんなところを自転車で回ってんだ。神醒術のベースは外国で学んだ」
「外国? へえ、なんだか、すごい方なんですね」
「いやいや、その旅も最近はできちゃいない。なんだかここんところ、街で変なことばっか起こってて、きな臭いから気になってとどまってたんだよね。で、そこにあんたらの声を聞きつけたってわけ。――知ってる? あのライオンもさ、ほかにいっぱい被害者がいるみたいだよ」
「え、ほんとですか」
「ああ。直接的な被害はないらしいけど、あたしの知ってる限りじゃ、やられてんのは全員あたしらみたいな『神醒術士』だってさ」
ユイは、レイジとヒカルと、顔を見合わせた。
ヒカルがつけ狙われた理由は、ずっと引っかかっていた。相手が神格を寄こしているとわかった時点で、単純なストーカーじゃない可能性は脳裏に浮かんでいた。ヒカルも、ユイたちと同じく神醒術士だ。ロードバイクのお姉さんの言うとおり、それが狙われた理由か。
でも、じゃあなぜ神醒術士ばかりを?
お姉さんも、犯人の目的はわからないという。ただ同じ被害者として情報共有をしてくれただけらしい。
考えるが答えは出ない。手がかりは他になにもないのだから。
レイジとヒカルもユイと同じように、首をかしげていた。
ロードバイクのデザインが格好よかったので、それについて、ちょっとの間だけ雑談をした。話が落ち着いたところで、お姉さんは自転車にまたがった。
「じゃ、あたしはそろそろいくわ」
「ありがとうございました」
「ん。ほかの友達にも、このこと教えてあげなよ。じゃあね」
言い残して、お姉さんは走り出す。みるみるうちにスピードを上げ、斜度が高い坂道をものともせずにのぼっていく。後ろ姿が米粒よりも小さくなったとき、ユイは、時刻がすっかり家の門限をすぎていることに気づいた。
アリス・フィフティベル 深窓のプライド #3
結局、少年との勝負には負けた。
「くっ、どうしてですの……何事も完璧にこなせるはずのわたくしが!」
「わー、おねえちゃん本当にプレイングセンスないねー」
「うっさいですわ!」
カードゲームとはいえ子供に負けるのは悔しかった。偉大な父の娘として、あってはならないことだ。しかし、じだんだを踏むアリスを、脇にいた世話係が「ルールを今覚えたばかりで勝てるはずがありません」となだめた。「条件がイーブンならお嬢さまが勝っていました」
その言葉で、アリスの気持ちはいくらか楽になった。次こそは同じ条件でやって勝つ! そう心に決めて呼吸を整える。
垂れていた髪を耳にかけ、咳払いをした。
「……でもまぁ、仕方ありませんわね。約束は約束です。怪しい黒ずくめについては他の子たちに訊くこととしますわ」
そう言ってアリスは、ジャングルジムのほうを振り返る。
しかし、そこにはもう先ほどの子たちはいない。
気づけばもう夕暮れ時だ。カードゲームに夢中で、空の色にまで意識が向いていなかった。
「…………はぅ」
と、放心する。ゲームに必死になって、しかも負け、さらには本来の目的である情報収集すら失敗したのだ。そう思うと、父の娘として情けなくて目が潤んできた。世話係が背中をさすっているけれど、そんなものは何のなぐさめにもならない。
と、そこでカードゲームを片づけていた少年がアリスを見て言った。
「あの、おねえちゃん。勝負はぼくの勝ちだったけど特別に、教えてあげようか?」
「ほんとですの!?」
「う、うん。なんかかわいそうだし」
「…………かわいそう、ですの」
年下に哀れまれるアリス・フィフティベル、14歳。
けれどこうなったら意地は張っていられない。ひょっとすると父の身に危険が迫っているかもしれないのだから。お願いしますわ、と頭を下げた。
にもかかわらず、少年から得られた証言はめぼしいものではなかった。たしかに怪しい黒服集団についての目撃情報だったが、それはアリスを襲った者たちと同一のようだった。彼らはすでに警察に捕まっている。情報が古かったということだ。
彼らに他の仲間はいないのだろうか? いたとしても、アリスの実力に怖れをなして逃げたのだろうか? ともあれ、この場で得られる成果はもうなさそうだった。
おなかがすいてきた。夜のお勉強も残っている。
アリスは少年に礼を言って、帰りを見送った。少年は公園から出るときアリスに「また遊ぼうね」と手を振った。もちろんですわ、と答える。負けっぱなしで耐えられる性分じゃない。少年はなぜか嬉しそうに去っていった。
車に戻るまえに、ふとトイレに行きたくなった。
世話係が「おうちまでお待ちください」と言う。ここは公園なので公衆トイレしかない。衛生面を気にしているらしい。
「わたくしは気にしませんわよ。帰ったら手洗いうがいをしますし」
本当はちょっと気になっていた。アリスは育ちの関係上、他人と同じ便座を共有した経験がほとんどない。公園のトイレにいたっては初めてだ。でも、もうがまんするのが難しいレベルまできているというのが本当のところだった。カードゲームをしていたときは集中力が誤魔化してくれていたけれど、それがなくなったせいだ。
「ですが、利用法はご存知ですか? よければ、ご一緒してお手伝いしますが……」
「はあっ!? こども扱いしないでくださいませ、ひとりでできますわよっ!」
いちおうデパートのトイレならば数回だけ利用したことがあるのだ。まさか勝手がわからないことはないだろう。
心配そうに見つめる世話係をふりきって、アリスは公衆トイレに向かった。
とはいったものの、人生初となる公園の公衆トイレを前にして、アリスは困り果てた。
女子トイレの個室を開けてみると、見たことのない形状だった。椅子形じゃない。楕円形の水溜めがあるだけだ。他の個室も見てみたが、どれもこの様式だ。
見下ろし、眉間を狭める。
――な、なんですのこれは……?
どこに座ればいいかすらわからない。
しかし世話係にああ言った手前、教えを乞いに戻るわけにもいかない。済ませたふうな顔で戻って、やはり家までがまんするか? ぎりぎり、もつかもしれないけれど――
そんな風に硬直しているアリスの背後に、気配があった。
はっ、と振り返る。
驚愕した。
声も出ない。
あまりに予想外だ。
スーツを着た体格のいい『男』が立っていた。
――ここ、女子トイレですわよ。
マルコ・ベイカー 理論武装のリサーチ #3
“学園都市が世界に隠している『本』の情報を、世界に公開せよ
さもなくば重要施設をひとつずつ潰す
――青き代弁者”
この犯行声明が八幡学園都市に送られてから7日が経とうとしていた。犯人が指定した、公開のタイムリミットがやってくる。
しかし八幡学園都市は情報を明かす気はない。あらゆる武力に対して、警察を可能なかぎり動員し、全力で応戦・制圧するつもりだ。
実際、それは可能だろう。八幡学園都市と友好関係にあるI2COのメンバーも、マルコをふくめ協力している。街中の庁舎や、文化的意味合いの大きい美術館や博物館、政策企画局長が入院している病院など、すべての重要スポットが厳重な警備下にある。犯人が一国の軍隊でも連れてこないかぎりはどれひとつ落とせそうにない。安泰だ、とマルコは考えていた。甘かった。
八幡学園都市署は、巨大な八幡学園都市における警察たちの心臓部だ。
満月の夜。約束の時間になると同時。
署の敷地内全域に、真っ黒な影が落ちた。
二階の窓から上空を見上げれば、影の元凶が飛んでいる。バチバチと羽を擦るような不協和音を鳴らしながら。
数えきれないほどのバッタの大群だった。神醒術による現象だと、ひと目でわかった。
本気か? とマルコは苦笑する。
犯人の狙いは容易に理解できる。現在、警察職員たちは犯行声明を警戒して街中に散っている。警察署に配置されている人員はふだんよりも、わずかながら少ない。そこを襲って崩そうというのだろう。
しかし安直にすぎる。多少パワーダウンしているとはいえ、ここは世界最高の神醒技術を誇る八幡学園都市の警察署だ。当然、世界最凶の神醒術犯罪を日夜取り締まり、街を守り続けるだけの実力を有した不落の砦だ。
どれほど大きな戦力を持っていたら、こんな大胆なプランを実行できるのか。興味深い。
マルコがこの襲撃に遭遇したのは単なる偶然だ。本来ならば学園の研究所に警備として貼りつく役目だったが、八幡学園都市のテロ事件対策チームから重要な連絡があるからと、わざわざ呼び戻されていた。しかしその呼びだしのおかげで、この奇妙な襲撃に立ちあえた。嬉しい誤算だ、とマルコは零れ出そうな笑みをおさえる。
階下か屋上か、どちらがより研究材料を得られそうか逡巡してから、素直に屋上を目指すことにした。
屋上にのぼってみると、そこには夜間用ライトに照らされた、ひとりの少女がいた。
ゴシックファッションというのだろうか、黒を基調とした、フリルが目立つ服装をしている。手にはウサギかなにかのぬいぐるみを抱えている。瞳の色が左右で違うのが印象的だ。年齢は、まだ十代の前半に見えた。
マルコは思わず目を見開く。
「まさか、ひとりか?」
状況から考えて、この少女が犯人だとして。
なぜ子供が、テロリズムなんて行為を? そしてなにより、たったひとりでここを落とせるとでも思ったのか? まったく意味がわからない。馬鹿げている。
興味をそそられるどころか、呆れを通り越して思考がほとんどフリーズしてしまった。それがよくなかったのだろう、少女の初手に対する反応が遅れた。
「お兄ちゃんも、わたしのお人形になってくれる?」
少女が言うと、彼女の全身が黒いオーラに包まれた。情報の膨張と破裂。バーストだ。通常は光だが、彼女は黒っぽい闇そのもののようなものだった。その特徴からソロモンの魔術を扱う術士だとわかる。
マルコは1テンポ遅れたものの、冷静に耳のゲートを触った。どれほど強力な術を見せてくれるのか、と期待しながら。だが彼女が起こした現象を見て、すぐに拍子抜けする。
黒いオーラに吊り上げられるように、少女の足元に作られた「影」がめこめこと蠢くと、煙のように立ちのぼり、不完全な人の形を成していく。この術はマルコは知っている。
虚影(ダミー)だ。
神格を顕現するには相応量のSI素子――情報が必要となる。しかし虚影は、その情報を集めきれないときに発生する不完全な存在だ。神醒術士を目指す者であればまずは虚影の顕現から学ぶ、と言っていいほどに基本的なスキルである。
虚影は存在が曖昧な、できそこないだ。だから攻撃すらおこなえない、ただの肉壁にすぎない。
あんなもので戦う気か? 笑えない。ただマルコには一応、この場に立ち会ってしまった以上彼女を捕まえなければならない責務がある。なんの研究材料にもならない、子供のテロごっこに付き合わされるのは癪だな。そう思いながらも、仕方なくゲートを起動する
と、そのときだった。
少女の足元の影が、マルコの知らないサイズにまで膨張した。
「ねえ、お兄ちゃん。もっとこっちにきて」
「なっ――!?」
虚影が、影で模った爪をふりかざし、明らかな凶暴性をもってマルコに迫る。通常なら有り得ない動きだ。
マルコはほとんど条件反射で左手を天に翳し、素早く神醒術を行使する。頭部に、まるで天使の光輪のように輝く月桂冠型の青いエフェクトが現れる。青色はオリュンポスの奇跡が発動したサインだ。
翳した手の先に無数の青い光の矢が現れ、降りそそぐ。屋上の床が砕け、コンクリートの破片があたりに飛び散る。矢に貫かれた虚ろな影は、あっけなく力尽きたのかどろりと形を崩し、煙のように大気に溶けて消えた。しかし、そのむこうで黒い服の少女が、微笑を浮かべている。
虚影は顕現にほとんどリソースを消費しない。すでに少女は、次なる影をいくつも発生させている。息つく暇もなく、黒い軍勢がマルコへと殺到した。
常盤シャンティ 眠れるピース #3
あんなにうるさかったBGMがやむ。
ホールの中央に設けられたステージに、赤いギターを下げた男性が登場した。
違和感には、すぐに気づいた。
彼の耳には、小型の機械が付いていた。イヤフォンでもヘッドフォンでもない。神醒術を行使するためのデバイス、ゲート。
それでシャンティはとっさに――どうしてそんな行動に出ることができたのか自分でも不思議だったけれど――防御用の神律を唱えていた。直後、ステージの男性も術を唱えた。
「お集まりいただき感謝する。さっそくだが貴様らに捧げる鎮魂歌だ……バルバトスの魔弾!」
いくつも浮かび上がる六芒星の魔法陣。
効果はなんとなくわかった。本で読んだことがある。対象を衰弱させる類の上級神律だ。その神律を、彼は常人離れした情報処理能力で連発した。魔法陣から射出される弾丸が、人々の頭に直撃する。本来は人間に対して使えないよう規制されている効果だけれど、彼のそれは会場に詰め込まれている300人以上はいるだろう人数を――テドちゃんを含めて――襲った。
本当はみんなを守りたかった。でも彼の神醒術は恐ろしいほどに強力で、とっさのシャンティではどうしようもなかった。
無防備なお客さんたちに効果は覿面だ。虚ろな目で涎を垂らしはじめる人々。その異常な光景の中でシャンティは、被害を防いでいるのを感づかれないように姿勢を低くし、息を殺していた。学校での演習じゃない、神醒術士によるはじめての悪意ある攻撃に、肩が震えていた。
授業で習ったことを、シャンティは思いだす。
もし衰弱効果を人間に使えば、情報処理速度の低下によって、擬似的なトランス状態に陥る。噂に聞いていた「快感」は、これが原因だろう。
男の叫ぶ声が聞こえる。「闇の底」だとか「破滅」だとか言っている。そのほとんどは意味を読みとれず、頭に入ってこない。
でも、なかには聞き流せないセリフもあった。
「さあ哀れな民衆どもよ頭を垂れろ、脳を拝借するぞ! 我が目的を達成するために、知識を、記憶を、オレに与えろ!」
知識。
記憶。
神醒術士は情報を操る。優れた者なら、人間の脳を覗き見て、求める知識や記憶を盗み出す神律を扱えるという話を聞いたことがある。このイベントは、みんなの頭の中から、なんらかの「情報」を盗むことが目的だったのだと、シャンティは気づいた。ばくばくと鳴る心臓の音が聞かれないか不安になりながら、シャンティはステージを見上げる。
さきほどの受付の女性もやってきて男の横に並んだ。ふたりは仲間だったようだ。
女性が神律を唱えると、空中の魔法陣から、インド象よりも巨大な、悪魔みたいな黒い爪を持った手が現われた。その手がゆっくりと下降し、衰弱して無抵抗になった人たちの頭に指先を触れる。人々の頭部から黒い煙のようなエフェクトが出て、それがステージに立つふたりの体内へと吸い寄せられる。
「どう? ヴォルフ」と、受付の女性が男に尋ねた。
男は、ギターを1回、ギュィイインと鳴らしてから返す。
「ふむ……これといった情報はないようだな。またハズレか。不思議なものだな、これほど多くの地区で探しているのに、目撃者のひとりすらいないとは」
「やっぱりね……私のほうもハズレ。でも、なんとなく予想はできていた結果だわ。こうなると、ここからはちょっとやり方を変える必要があるわね」
「なに? ライブはもうしないのか」
「当然よ。こんな地味な方法で、クリティカルな情報が手に入るわけないでしょう。あくまで布石だったのよ。魔王の会は今日でおしまい」
「それは残念極まりないな。……して、ここの哀れな民衆どもはどうする?」
「私たちの記憶は消した?」
「ああ、いつもどおり」
「なら、もう用済みだし放っておいていいわよ。少しすれば目覚めるでしょう」
女性が言って、ステージの階段を下りる。出入口のドアまで歩く。そのうしろをギターの男もついていく。
ふたりが扉の向こうに消えると、空中に浮かんでいた悪魔の手も消えた。
それと同時に、シャンティのまわりにいた人たちが一斉に、まるで眠ったかのように倒れはじめた。シャンティはそれまで止めていた息を吐きだす。抜けそうだった腰に力を入れる。隣のテドちゃんの身体をなんとか支えて、ゆっくりと床に横たわらせる。
その弱りきった表情を見ると、さっきまで激しかった鼓動が徐々に収まり、恐怖が薄らいでいった。かわりに、胸の奥の方からふつふつと、怒りが湧きあがってくる。
シャンティはドアのほうをキッと睨むと、ふたり組を追って駆け出した。
文/河端ジュン一