企画記事
ウルティマ オンライン10周年特別企画「元GM覆面座談会」――今だから言えるあのときのUO(第一夜)
それは,「ウルティマ オンライン(Ultima Online)」(以下,UO)のパッケージが日本で発売された日である。それから10年が経ち,2007年10月17日,今もなおサービスが続けられているUOの,記念すべき10周年を迎えた。
この記念すべき日に先立って,EAから「何か面白いことをやりましょうよ。っていうかやってくれませんか」と依頼があったのだが,10年の歴史を刻んだ作品ともなると,なかなか良いアイデアが思いつかない。攻略とか紹介なんていうごく当たり前の記事ではない,昔からの人も新しい人も読んで面白い“何か”とはなんだろう,とずっと考えていた次第だ。
そんな中急浮上したアイデアが,「覆面座談会」。10年もの歴史を誇っていまなお現役のオンラインゲームはUOくらいしかなく,その間に起こった様々な事件やイベントは,もはや口頭や個人のWebサイトで伝わるだけになっており,ものによっては「ネタ」扱いさえされている。シャードの家全部消えました事件や,Yamato大戦など,昔からの人が読むと懐かしく,新しい人が読むと「へえ」と思える,そんな記事ができるんじゃなかろうか。
そんなわけで,当時の日本サービスを支えてきた元GM(Game Master)達に集まってもらい,当時の苦労話や今だから言える話といったところを聞かせてもらえることになった。みなさんいまなお業界で現役の人達なので,仮名で登場することは,なにとぞご容赦いただきたい。
2007年10月某日,東京都内のとある料理店に集う6人の元GM達。いずれも,UOの日本サービスを初期から支えてきた人達である。すでにUOから離れた人だからこそ言えること,匿名だからこそ言えること……。そんな,元GM達から出る言葉の一つ一つを記録……するのはよいが,果たしてこれ本当に公開できるものになるのだろうかと心配しつつ,乾杯の音頭と共に幕は開いた。
Special Thanks(画面写真提供):Acha.,Kapapa,Cactus,Veno,小菅真美 |
■第二夜は「こちら」
■第三夜は「こちら」
10周年を迎えたウルティマ オンライン
日本シャード開始当初を支えてきたGMとはどのような人?
すべてはここから始まった。今では見られない懐かしのログイン画面 |
大混乱していたころのUOから1枚。ミニマップにはテントが見え,バックパックにはOrder Shieldが見える |
4Gamer: (ひとしきり「お久しぶり」の応酬が済んだあとで)本日はよろしくお願いします。みなさんが今回みたいに集まったのは何年ぶりぐらいになります?
ベス : 色々な方面へ散ってしまっているので,こういう集まりは実は初めてですね。
ミノ : ゲームショウで会うことがあったくらいかな?
4Gamer: なるほど,みなさん結構お久しぶりだということですね。さて,みなさんご存じのようにUOが10周年となるわけですが,10年前の1997年って何してました? もうUOやってました?
トリ : 1997年はまだ日本でサービスしていないからなぁ。何があるかな……。当時UOで評判になったのは,発売日に何百人も店頭に並んだってことでしょうかね。
ベス : 当時はみんな「Diablo」をしながら,WebでUOのことを見ていた時代かも。
トリ : あのときPCショップの店員だったんだけど,英語版にもかかわらず予約が150件入ったんだよね。これは当時ありえない数字だった。でも発売が北米オンリーで輸入できなくて,発売日に予約者全員に謝罪の電話をかけて,かなり怒られましたよ。
スカラ: みんな第一便で買えなくて,どこかで入荷したのを聞きつけては駈けずりまわってた,そんなころですね。
――1997年当時全員がプレイヤーだったこともあり,話は1998年に。
4Gamer: その後1年。みなさんは,どんな形でGMになったんでしょうか。
トリ : 最初に,日本のGM全員が集まったのは1998年の8月でしたっけ。僕が入ったのはGMのみんなが集合する日で,面接に行ったらそのまま採用しますと言われたんですよ。そして,今からミーティングがあるけど,時間ありますか? と言われた(笑)。
ベス : それ,GMの面接だったの?
デン : 僕も,テスターの募集だったから応募したんだけどね(笑)。
スカラ: ボランティアに応募したら,GMを募集しているんですけどどうですか? と言われた記憶が。
4Gamer: 割と適当ですね,EA Japan(笑)。ボランティアの募集が始まったのはいつごろでした?
ベス : 実は俺とユーさんが同期で,カウンセラー(※)第1期だったんだよね。
トリ : カウンセラーの募集を始めたのが1998年の11月とか12月とかだったかな。
ベス : その後,GM募集がなかなかなくてねぇ……。
ユー : 私はエレクトロニックアーツ・ジャパン(以下,EAJ)にいた期間より,カウンセラーだった期間の方が長いんですよね(笑)。
※カウンセラー:一般のプレイヤーが無償ボランティアとして参加するサポートチーム
4Gamer: なるほどお二人は,カウンセラーからGMになったわけですね。1998年当時ってどんな感じだったかな……日本のシャードって二つか三つありましたよね。
トリ : 立ち上げはAsuka,Yamatoの二つで,10月か11月にWakokuがオープンして(※),その翌年1月にHokuto,次にIzumoだったかな。
ベス : 俺がGMになったときは,もうWakokuがあった気がする。
同じく懐かしいログイン画面から,シャード選択画面。イベントサーバーが立ち上がっている貴重な一枚だ |
運営サイドとプレイヤーの距離が異様に近かったオンラインゲーム。海外シャードでの話だが,筆者は自宅にWandering Healerが入ってスタックしたときに呼んだら,実はそれはプレイヤー時代に一緒に遊んだことがある人で,1時間も雑談したことがある |
トリ : Wakokuは同じ年だった。
ベス : Wakokuってほら,AsukaとYamatoの余った部品で作ったと,ずっと言われてたじゃない?(笑)。
トリ : そーじゃないでしょう(笑)。
ベス : だから,Wakokuはあとだね。
※編集部調べ,Yamato/Asuka(1998年9月28日),Wakoku(1998年10月31日)
4Gamer: 余った部品……。
ベス : そんな噂があったんだよね(笑)。だからWakokuのラグは酷いんだ,とか。
スカラ: Hokutoまでのサーバーは最初から用意されてたね。
トリ : そうそう,予定はあった。
ベス : AsukaとYamatoは日本人がかなり多くて,Wakokuを後でオープンしたら,逆に日本人が少なくなっちゃって,外国人と半々くらいになってたんだよね。当時はグローバルキュー(全シャード共通のGMコール)がまだなかったから,コールの他にも仕事があったリードGMの担当はコールが少なくなるWakokuだった。
トリ : そうだったっけ。あのとき,二人ずつで2シャードに分かれてってやってたのは覚えてる。
ベス : ってことは,ボランティアチームが動いてた当時にもうHokutoはあったんだ。
デン : 日替わりだったよね。いわゆる担当シャードっていうのはなかった。
ベス : そうだったかも。
スカラ: リードGMもほかのシャードを担当することがあるけど,なるべくWakokuという感じだったねえ。
ベス : リードGMが,どこかのシャードとWakokuの2シャードをやってたかな。遅い時間になるとリードGMがWakokuを見るという感じだった気がする。
1998年9月。日本シャードのアナウンスを待つ日本人プレイヤー達。日本シャードの前触れ(だったんだと思う)として突如設置されたオブジェクトの前でジッと待っていたが,アナウンス自体はブロードキャストで行われた。残念 |
Wakokuシャードは,外国人が多かった
4Gamer: Wakokuは日本人がそんなに少なかったんですか?
ベス : 実態はどうだろう。でもとにかくコールが少なかった。Hokutoもそうだよね。
トリ : 人数が基本的に前の二つに比べて少なかったからね。
ベス : やっぱり最初にオープンしたAsuka,Yamatoに日本人が集まってたね。その後,たしかHokutoがずっとシャードリストの一番上になってたじゃない。だからそこに,知ってか知らずか,アメリカ人を含めて海外から流れ込んでくることになった気がする。
トリ : 日本人も海外の人も流れてこないWakokuは,少ないままだった。
スカラ: Hokutoは,日本人もいたけど,ほんとに外国人が多かったね。
デン : オーストラリアとか台湾とかね。
トリ : あー,いたいた。
ミノ : Hokutoのオクローから来るGMコールは台湾の人が多くて,全部大文字で「COME ASAP」(Come As Soon As Possible)とか(笑),そういうGMコールが多かった記憶があるなぁ。
ベス : UOE(※)を使っていた台湾ギルドがいたね。
※当時流行っていたチートツール。後に公認ツールになるUO Assistも当時は,非認可のチートツールだった
スカラ: 有名な台湾人が多い,チートを生業とするギルドがいたじゃない? 「またあのギルドが悪さしてます」というGMコールが多かった。それで,コールを受けて向かうと,だいたい対象のプレイヤーに「今,本人(兄)と変わるからちょっと待って」とか言われる(笑)。
4Gamer: オマエは誰なんだ,と(笑)。
デン : 当時,ステータスを改造するチートがかなりあって。ちょうどそのギルドが関係していたんで,どんどんジェイル(※)に送ってBANしていたら,米国のEAに「日本はBANしすぎ」って怒られたことがあったよね。
※プレイヤーが普通には行けない牢獄が存在する
ベス : だって死ぬほどコールが来るんだもん。
デン : キャラクターを見れば一発で分かるしね。
トリ : そのころオクローと三叉路(※)を巡回してたよね。
※ブリテンの西から続く街道の先にある三叉路。ここはPK出没地として非常に有名な場所だった
ベス : そうそう(笑)。
スカラ: 最初はチェックするツールもないから,実際に見るしかなくて。
デン : おかしいんですよね。弓のスキルが2000とかで,そりゃ1発で死ぬだろと(笑)。
4Gamer: ありましたねぇ,そういうの。そういう混沌をも含めてUOの魅力ではあったわけですが。ところで,今回の企画に臨んで昔のスクリーンショットを探してたんですけど,テントの画像が見つからなかったんですよ。日本シャードにはテントってありましたっけ?
トリ : 最初の2か月はあったんだけど,テントを取り払うために,一度家情報を管理するサーバーを止めて,テントを建てられなくしたんだよね。
デン : ラージハウスの入り口をテントで囲むとか,よくありましたよね。
ベス : あれ,通り抜けができるんだよね。グラフィックボードの表示の遅さを利用して。
4Gamer: そうだったのか……。
トリ : それもあったし,斜めから馬を召喚して向こう側で乗るとかでもOK。
スカラ: うんうん。
ベス : もう,デンさんとトリさんの二人が悪人で悪人で(笑)。PKならまだしもFPKバリバリで。
デン : 俺F(Flag)じゃないよ。C(Counter)だよ。
※FPKとは,相手の攻撃――範囲攻撃など――に飛び込んで相手を犯罪者にしてからPKすること。CPKとは,相手に自分を攻撃させてから反撃してPKすること。受動的/能動的な違いはあるが,どちらもPKが殺人カウントを増やさないための手法
ベス : それをFPKっていうんだよ!(笑)
スカラ: わざとNewbie(初心者)のような装備で,カモのような動きで誘って,攻撃してきたら殺すとか。
ベス : 召喚デーモンを隠してあって惨殺したりとか。
デン : それがほら,後の彼の企画するイベントに生きてくるんだよ。
ベス : こいつらは酷い(笑)。
スカラ: 話を戻して……テントといえば,自分がプレイヤーのときに最初にしたGMコールが,「自分のテントの前に,テントを建てられてて入れません」というやつだったなぁ。
4Gamer: それは普通にあった記憶がありますね。
スカラ: そしたら,GMが姿を出さずに,テントだけすっと動かしてくれる。
4Gamer: ですね。ズルズルとテントだけ動かして「これでOK?」とか聞かれたり。船なんかも動かしてくれたことがあります。
トリ : テントつながりで,ユーとかのオークキャンプに湧くテントも最初の年はひどかったよね。
ベス : そうだっけ?
トリ : オークキャンプが延々とスポーンして,テントが沸きまくってた。
ベス : ああ,そういえば! モンスターが消える仕様が入るまでは,壁にいるモンスターを降ろしていくって仕事があってさ。日々の最初の仕事はそれだった。
ミノ : 巡回コースとかあったよね。
ベス : T2A(UO The Second Age)もずっとサーバーラインに鹿とかNPCが溜まってて,これを消さないと沸かなくなる仕様だったよねえ。
スカラ: デスタードの壁際には縁があって,そこにDrakeだのWyrmだのモンスターが引っかかってた。
4Gamer: 巡回コースですか。例えばどんな感じで回っていたんですか?
ベス : 人によるけど,T2Aが面倒だから先にやろうって人もいるし。
デン : コールが来るのは大抵T2Aだったしね。
ベス : 動物をTameできないとかね。ともかく,GMにとってT2Aの地形は造りがややこしくて,本当に困ったよね。
スカラ: T2Aで一番困ったのが,あとから追加されたハルドゥーンですね。実はあれ,全部動かせるアイテムを固定して作ったダンジョンなんですよ。プレイヤーからは普通の地形に見えるんですけど,GMから見ると全部動かせるアイテムなので,動くたびに画面が馬鹿みたいに重いし,迂闊にアイテム――というか壁? 笑――を動かしそうになって大変でした。
元GMの失敗談
4Gamer: いろいろなものが取れそうなダンジョンですねぇ。
トリ : ハルドゥーンは,いろんなモノをロックし忘れとかあったよね。
デン : そういう失敗で一番ひどかったのは誰だっけ。家の一番重要な部分を消しちゃったとか。
一同 : やったやった(笑)。
ベス : 家の看板を消しちゃうのは普通でしょう。
4Gamer: 普通……。
ベス : それくらいはみんなやってて,看板を消しちゃうと,もう絶対に家を建て直す以外に方法がない。まぁそれはまだいい方で,トリさんは,ある日GM用のサポートツールで変な組み合わせのキーを押したらしく……。
トリ : そう。なんか知らないけどダイアログが出てきた。「Are you sure? Yes or No」とかなんとか。それでYesを押してみたんですよ。
ベス : あれどこのシャードだっけ?
トリ : あれは,Yamatoかな。Yamatoで,不在マクロを捕まえてバッカニアーズ・デンに飛ばしたあとに,なんか変なキーコンビネーションを押しちゃったらしく,ダイアログが出たんですよ。なので,とりあえず“Yes”を押したんです。そしたら,Yamatoの家が全部消えた。
一同 : (笑)。
ベス : さすがに巻き戻したっけ。
トリ : あのときはスカラさんに頼んで,米国の開発チームに電話してもらって巻き戻してもらった。
スカラ: 個人的には,そのとき初めて,電話で米国チームとコンタクトを取った。
ベス : そうそう。たしか家は徐々に消えていって……。
トリ : 最初すごいラグが発生した。
トリ : 巻き戻るに決まってるのに(笑)。
ベス : それはともかく,YesかNoが出たら,普通は一応Noを押さないか?
4Gamer: 普通はYesを押しません(笑)。
ベス : いや,そもそも考えたら,そんなことができるアルマゲドンっていうコマンドがあるのが駄目なんじゃないかな(笑)。
トリ : なんでアレが出たのか分からないんですよね。あれ以来色々試して押してみたけど,あれっきり二度と見たことないです。
4Gamer: 全部家が消えちゃったあの事件はそれだったのか……。
スカラ: サーバー落とした回数が一番多いのは誰だっけね?
4Gamer: なんですか,その落とした回数っていうのは。
スカラ: 何も悪いことはしてなくて,至極善良にやってるんだけど(笑)。どうしてもサーバーが落ちてしまうということがあるんですよ。
ベス : 俺ね。1度,データセンターにメモリを足しに行ったんですよ。作業を全部終えて,ご飯を食べにいってたら,ものすごい電話がなってたみたいで。どうも,サーバーを引っ張り出したときに,サーバーの電源コードを引っこ抜いてたっぽい。帰ってきたら「Ping」が通らないって話で大騒ぎになってた。ごめん,ごめんと……。たぶん2時間くらいは落ちてたかな。
4Gamer: あんまり善良な感じじゃないですね(笑)。
スカラ: あれ1回だけですよね。
ベス : そう1回だけ。ちなみにデータセンターは,4ラックと少なかった。
4Gamer: おや。いくらその当時とはいえ,思ったよりも小さいですね。
ベス : その前はもっとあって,たぶん20ラックくらいあったんです。Pentium IIIくらいのラックマウントではないタワー型のPCで,それを新しいサーバーに乗せかえると,一つのシャードが半ラックになるんですよ。それ全部やったよね。
ユー : やりましたね。
ベス : 全部手で運んで……。それからすごくスマートになったんですよ。それまでは,サーバーではなくてただのPCだった。だから,その当時はサーバーを結構落としましたね。
スカラ: 大量にモンスターを出しすぎて落ちちゃったとか,プレイヤーを集めすぎて落ちちゃったとかありましたね。あと酷いのが,出しちゃいけないアイテムというのがありまして。例えば星空のようなテクスチャーがありましたが,それを表示した瞬間に,クライアントがクラッシュするという……。
ベス : それ5月人形(笑)。
スカラ: 「あ,5月人形だー」と建物に入ってくると「ピタッ」と動きが止まる。
デン : カウンセラーに見てもらったときは,落ちなかったんだよね。どうも大丈夫なグラフィックスボードもあるようで,駄目な人はみんな入り口でピタッと止まる。
ベス : 画面の周りで止まってるんですよ。
トリ : 建物の中だったから,ドアを開けて入ってくるまで状況が分からなかった。そして,中に入ってきてみんな落ちる。
4Gamer: 最強のトラップですね。
スカラ: あれはサーバーダウンじゃないけど,かなり悪どいですね。
デン : 使っちゃいけない色を使ってたとかありますね。
ベス : スカラさんとデンさんは酷いよ。この二人はイベント担当だったんで。ほら,暴露してごらん(笑)。
第一夜はここまで。
すでにこの時点で,とんでもない話が飛び交っている気がするのだが,当時のサーバーがタワー型のPCを並列に繋いで運用していたという話は驚かされた。そして,アルマゲドンコマンド……筆者自身,家が消える瞬間を目の当たりにしているので,その真相が分かってスッキリした。というか,なんでそこでYesを押すかな……。
ここまで読んで,ふざけて適当な人達だと思われてしまうのも本意ではないのでフォローしておこう。
なにせこれは9年前のお話だ。この当時は,日本の会社にオンラインゲームを運営するノウハウなどあるわけもなく,運営サイドもプレイヤーも,そしてなにより米国の開発チーム自身も手探りで進んでいた時代だ。9年前のオンラインゲームで,さらにいまなお類似品がまったく登場しないほどの独自性を持ったUOという作品をつつがなく運営していくことは,並大抵の努力ではないはずだ。
古くから日本でオンラインゲームを手がけてきた会社の一つであるエレクトロニック・アーツ。そこで経験を積んで離脱したスタッフ達が,今の日本のオンラインゲームの運営を支えているといっても決して言いすぎではない。そんな一流のスタッフ達の,若かりしころの逸話として,どうかそのつもりでお読みいただきたい。
というわけで,そんな元GM達のさらにアクドイ一面が暴かれる第二夜をお楽しみに。……すでに趣旨が大きく逸れている気がするけど。
――第二夜に続く
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