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ビデオゲームの語り部たち 第7部:Mr.ドットマンこと小野 浩氏が,制約の中で追求した自由
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印刷2018/07/28 00:00

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ビデオゲームの語り部たち 第7部:Mr.ドットマンこと小野 浩氏が,制約の中で追求した自由

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 ビデオゲームは革新の連続で発展し,ハードウェアのスペック向上に伴って,ゲームのキャラクターや世界観も拡張を続けきた。その中でも大きな転換点が,1990年代前半の3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)の登場であったことは,この連載で何度も書いてきた通りである。

 3DCGにより,ゲームは“イマジネーション”から“リアリティ”へと舵を切った。筆者はかつて音楽業界に身を置いていたが,この変化にはレコードがCDに取って代わられたことと似た時代性を覚える。

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,そんな激動の時代を生きた元ナムコのドットアート・クリエイターである小野 浩氏の人生にフォーカスする。

 人生はその人物が積み重ねてきた歴史だ。それを紐解くことは,その人柄や生み出してきたものに触れることでもある。今回の取材を通して,小野氏が作るドットアートでできたゲームが温かみにあふれ,人々の想像力を掻き立てるものだったこと,そして,そのドットアートは今も色あせることなく,脈々と受け継がれていることを確かに感じた。

小野 浩氏
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小伝馬町で過ごした幼少時代,ドットアートの原点に触れる


 小野氏は東京都中央区の小伝馬町で生を受けた。
 北は岩本町,南は人形町,東は馬喰町,西は日本橋本町と隣り合う下町である。オフィス街に姿を変えた今も,1本裏通りに入れば,静かな佇まいが目に入ってくる。

 「小伝馬町の交差点のところに,私の生家がありました。当時は都電が走っていたので,毎日それを眺めていて,当然のように将来の夢は『都電の運転手』でしたね」

 小野氏は自宅からほど近い中央区立十思保育園に通い,その隣にある十思小学校(※現在は十思スクエアという福祉施設になっている)へと進学した。ちなみにこの界隈は,池波正太郎や藤沢周平の時代小説に登場する,伝馬町牢屋敷があった場所である。

十思保育園や十思スクエアと隣接する十思公園
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 幼い頃の小野氏は,テレビのプロレス中継に夢中だったという。また,試合の合間に,スポンサーの三菱電機が発売したばかりの掃除機「風神」を使ってリング上を掃除するパフォーマンスが,子ども心にある種の驚きをもたらしたそうだ。
 そして,そんな幼少期に,小野氏にとっての「ドットアートの原点」があった。

 「きっかけは銭湯のタイルなんですよ。当時,家に風呂がなかったので銭湯に行っていたんですが,そこの壁面にタイル画があったんです」

 銭湯の絵というと,ペンキで描いたものを思い浮かべる人もいるかもしれないが,小野氏が見たのは,男湯と女湯の間にある壁に,タイルを並べて描かれたものだった。

 「そのタイル画は,湖や森,西洋風のお城を描いたものだったんですが,湖に浮いている白鳥のくちばしが,三角のタイルでできていたんです。
 四角いものを並べていると思っていたのに,なぜくちばしだけ三角なんだろうって……。後になって,四角いタイルを切って三角にしたものを貼っているんだと分かったんですが,当時は不思議だなと思うと同時に,そこだけルールが違うのはズルいよなぁと思っていました」

小野少年が見たタイル画は,このようなものだったと思われる(撮影協力:台東区 六龍鉱泉)
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 筆者はいきなり銭湯の話が出てきて面食らったが,言われてみれば確かにタイル画はドットアートそのものだ。

 「家の近くには銭湯がいくつもあったんですが,タイル画が気になって,その銭湯によく行っていました。タイル模様がずっと頭の中にあって,自分が作るドット絵の原点になっているんじゃないかと思うんです。マス目というか,制限がある中で絵を描こう,みたいなところが」


親しくしていた教師の紹介でナムコへ


 小野氏は小学3年生になるとき,国分寺に引っ越した。

 「僕が小児喘息を患っていたので,空気のいいところに移ろうかということになったんです。郵政省勤務だった父親が社宅に申し込み,幸いにして当選したようです」

 国分寺での思い出は,緑が多い環境,そして学校の校庭が広かったことだという。遅刻しそうなときは校門をくぐっても安心できず,教室に入るまでにチャイムが鳴ってしまうのでは……と気が気でなかったそうだ。

 「当時は国分寺のことを田舎だと思っていました。そして,これはのちに就職してから気づいたんですが,都心へ通勤するのは大変な場所なのに,よく引越しを決めてくれたなと。両親に感謝ですね」

 国分寺で成長した小野氏は,渋谷区にある日本デザイナー学院のグラフィックデザイン科に進学する。

 当時好きだったアーティストは,福田繁雄氏。「日本のエッシャー」とも称されるトリックアート的な手法が気に入っていて,福田氏が日本デザイナー学院で行った特別講義には,いたく感銘を受けたそうだ。
 また,岡本太郎氏の型にはまらない,自由な発想で作られたグラフィックも好みで,時代を遡れば,竹久夢二氏の作品にはグラフィックデザイナーの原点を感じるという。

 日本デザイナー学院でグラフィックデザインを学んだ小野氏が卒業制作として手がけた作品は,記憶の中にあったタイル画に影響されたものだった。
 作品自体はタイルではなかったが,タイル状の四角形を組み合わせたもので,彩色に「四角すべてベタ塗り」「半分だけベタ塗り」といったいくつかのルールを決めて,日本地図を背景に蒸気機関車を描いたという。

 多感な時期に出会った自由奔放な芸術家達の作品と,幼少時に心動かされたタイル絵が小野の中で結実したのかもしれない。ドット絵という制限のあるアートでありながら,おおらかさを感じさせる小野氏の作品独特の雰囲気は,すでにこのときからあったようだ。

 小野氏は日本デザイナー学院を卒業後,ナムコ(現在のバンダイナムコエンターテインメント)に入社した。ナムコはすでにある程度の規模を持つ会社になっていたが,小野氏は最初からナムコを希望していたわけではなかったという。

 「最初にトミー(現在のタカラトミー)の試験を10月に受けたんですが,落ちてしまいました。結果が分かったころは卒業制作が佳境で,卒業作品展の実行委員もやっていたので,そっちにかかりきりになってしまって。それらが無事に終わって『うわ,就職活動何もしてねーじゃん……』って慌てだしたら,教務課の先生に呼ばれて,『ナムコから募集がきているんだが,どうだ』って」

 小野氏は普段からその先生と親しくしていて,絵だけではなく,趣味で物を作ることが好きだといったことをよく話していたという。それもあってナムコの募集を知らせてもらえたようだ。

 「この先どうしようと思っていたので,当然,渡りに船って感じで受けました。ちょうど『スペースインベーダー』ブームで,その前にはATARIのブロック崩し(BREAKOUT)もはやっていましたから,面白そうだなと。
 ただ,僕自身ゲームは好きでしたが,学生時代はあまりやらなかったんです。お金があるならゲームより画材! って思ってましたし。なので,内定をもらったあと,東急文化会館のゲームセンターで『ジービー』を見たのが,自社製品を意識した最初ですね。入ってからも,昔遊んだゲームがナムコ製だっていうのが分かって,そうだったんだ,すごいな,とその度に思いました」

 「ジービー」については,本連載の第4部で詳しく紹介しているので,そちらも確認してほしい。


ナムコのデザイン課は“なんでもやる課”


 小野氏は1979年にナムコへ入社し,開発部デザイン課に配属された。

「デザイン課には,ビデオゲームのキャラクターや画面に加えて製品ロゴや印刷物のデザインを担当するグラフィック・デザインと,筐体などのデザインを担当するインダストリアル・デザインの2チームがあったんですが,僕はグラフィック・デザインチームに配属されました。
 入社したときには『ボムビー』が完成済みで,ちょうど開発中だった『ギャラクシアン』に登場するエイリアンの色塗りをやったのをよく覚えています。まだドットの仕事はしていなくて,上司が描いたロゴデザインのクリーンアップ(清書)とか,インストラクションカード(アーケードゲームの説明書的なもの)の版下作りが中心でした」

※『ジービー』のデザインを踏襲したブロック崩し系アーケードゲ−ム。1979年8月に発売された。

 その頃のゲーム開発は現在に比べれば非常に小規模で,分業化もされておらず,関わっている人たちはある意味,何でもやらないといけない状態だった。それだけに,職場には「足りないものは自分たちで作る」という雰囲気があったようだ。

「タンクバタリアン」
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 「デザインと名のつくものは何でもやった,という感じです。ショーに出すカタログのデザインとか,『アミューズメントマシン』(業界紙)の広告版下もやっていました。
 『タンクバタリアン』(※)の開発くらいから,1人での仕事を任されてくるようになったと思います。グラフィック・デザインチームとインダストリアル・デザインチームの上長は兼任だったので,実際のところ,うちのチームは主任と先輩と僕の3人で仕事を回していました。1年間でリリースするゲームの数がそんなに多くなかったから,その人数でもできたんです」

※戦車を操作して敵を倒していくアーケードゲームで,1980年10月に発売された。ファミコン版は「バトルシティー」という名前でリリースされている


「小野さん,もしかしてあの絵描いてたんですか?」


 そんな少人数の開発を経験してきた小野氏からすると,現在のゲーム開発は別世界のことに思えるようだ。

 「今は関係する人が多すぎて……。ひとつのプロジェクトに何十人,何百人という規模じゃないですか。知り合いに聞いたら絵描きだけで何十人,それも特定のエフェクトだけに数人とか……。『うそだろ』という感じです。僕たちの頃は1人で何タイトルか掛け持ちで開発やデザインをするのが普通でしたから。そもそも,プロジェクトっていう言い方すらなかったですよね。タイトルごとに集まっているんじゃないんです,
 なので,そのタイトルの開発に関わっているメンバーを完全に把握しているのは,中心になる企画の人間くらいだったんじゃないかな(笑)。
 ついこの間も,昔の同僚と話をしていて『え? お前,あれの音楽やってたの?』『小野さん,もしかしてあの絵描いたんですか?』なんて言われて,それくらい横のお付き合いがなかった感じですね」


スカジャンの背中にナスカの地上絵


「ゼビウス」
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 小野氏の普段着はカジュアルだ。今回の取材は,小野氏が作品を出展する展示会の会場で始まったのだが,展示会が終わった後,着替えた氏が羽織っていたのは,鮮やかなレッドとイエローゴールドのサテン生地を使ったスカジャン。背中には,なんとナスカの地上絵のハチドリが刺繍されていた。
 4Gamer読者ならピンと来る人も多いだろうが,この地上絵は「ゼビウス」に登場するもので,同作のアイコン的存在となっている。おそらく小野氏のこだわりなのだろう。

 「もう有名な話ですけれど,会社の昼休みに大森でレコードを買ったら,その店の袋にナスカの地上絵が描かれていて,これ,何かいいなあと思ったんです。
 ちょうどその日にゼビウスの打ち合わせがあったので,背景の砂漠が茶色一色で淋しいから何か入れたいと話して,ハチドリの地上絵を使いました。
 あの日,あのレコード屋さんに行かなかったら,砂漠は茶色のベタ面のままだったかもしれませんね。あの頃は,雑談でポロっと言ったことが割とあっさり採用されちゃう時代だったんですよ」


故・中村雅哉氏の思い出


 筆者は旧ナムコの関係者を取材するとき,創業者である故・中村雅哉氏がどのような人物で,どのような経営ポリシーを持っていたのかを聞くことにしている。これは故人を取材できない無念さ,そして,ひとつの時代を築いた経営者の人間性を垣間見たいという好奇心によるものである。故人の周辺にいた人たちから,生前の活躍を探り出したいと思っているのだ。

 筆者が会ったことのあるナムコのOBは口を揃えて,中村氏は仕事が好きだったと語った。休日も自宅でくつろぐことなく,まして長い夏休みなども取らず,オフィスにいることが多かったという。
 また,デスクで開発作業をしていると,いつの間にか中村氏が後ろに立っていて,「どうだ調子は?」「それは何をやっているのか?」などと,気さくに尋ねてきたそうだが,小野氏もそのような経験があったようだ。

 「中村社長は,うちの部署の上司と仲が良かったので,気がつくとデザイン室にいらしていて,僕の後ろに立って作業を見ていた,ということはありました。
 その頃,ロゴデザインの承認などは全部社長決裁だったので,デザインしたものをお見せするときや,開発製品の発表を試作室でやるときにもお会いしましたが,そんなに親しくお話をさせていただいたという記憶はないんですよ。今思うと残念です」


“普通に”仕事をしていたら,ヒットに恵まれた


 ナムコのビデオゲーム黄金期を彩るヒットタイトルの数々に関わった小野氏には,さまざまなメディアがインタビュー取材を行っている。
 それはもちろん,奇跡のようなタイトルがどのように作り上げられたのかという興味や,歴史を明らかにしたいという衝動があるからだろう。だが,当の小野氏にとって,ヒットタイトルの開発作業はあくまで“普通の仕事”であったようだ。

「ギャラガ」
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 「僕としては,特別に何をしたわけではないんです。普通に仕事をやっていたら,たまたまそのゲームがヒットしたという印象なんですよ。
 『ゼビウス』はもちろん,『ポールポジション』も,あの時代のドライブゲームでは斬新でヒットしましたし,『ギャラガ』『ギャラクシアン』から続くシリーズで,今でも映画に出るなど,海外で結構人気があると聞いていていますが,たまたまそういう作品に当たったというか……」

 小野氏は謙遜するが,「特別に何をしたわけではない」という割に,その仕事ぶりはなかなかハードなものに思える。

 「当時は,誰もやり方とかを教えてくれませんでしたから,自分で編み出すしかなかったんです。ドット絵なんて誰もやったことがないので,教えようがないということなんですけど。だから,自分で工夫して描いていました」

 それはまさに手探りの作業だったようだ。

 「例えば,ガクガクした線を綺麗に見せるにはどうしたらいいか……となったときも,中間色を置けばボケるということを誰も教えてくれません。
 しばらく後になって,アンチエイリアス(※ギザギザを抑える処理)って,自分がやっていたことと同じことじゃないか,って気付いたりね。
 使える色数も少なかったんですが,そうも言っていられないから,何とかしなきゃならないわけで。ドットを市松模様にすれば,2色を混ぜた色に見えるかな……とか。
 『こうしたらこう見えるのかな』って考えて,とりあえずやってみたら,それなりに見えて正解だった,みたいな感じですね」

「ギャプラス」
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 そういった姿勢は,「ギャプラス」でのエピソードにも現れている。

 「『ギャプラス』では,敵キャラクターが回転するだけでなく,ヒネリが入るんです。これを描くには,やっぱり立体で確認するしかないなと思って,粘土で形を作って焼き鳥みたいに串をさして,回転させながらスケッチして,ドット絵を描いたんです」

 すべてが手探り,やってみるしかない,という環境のなかで個人が成長し,その結果,企業も大きく成長する,当時はそんな時代だった。


制限があるから面白いこともある


 現在のビデオゲーム開発はハードウェアの進化に加え,ソフトウェアの共有化や簡易化による技術水準の引き上げがあり,クオリティが目覚ましく向上した。しかし,1980年代から1990年にかけて全盛を誇ったドット絵のキャラクターに今なお魅力を感じる人は多い。
 それはおそらく,最終的なグラフィックスがプレイヤーのイマジネーションに託されているからではないだろうか。

 当時,ドット絵での制作には,ドットや色の数をはじめとした厳しい制限があった。にもかかわらず,なぜ小野氏はそこに限りない可能性を見出し,キャラクターや世界観を見事に表現できたのだろうか。

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 「何でも与えられ,何でもできるというのはつまらない,という思いはあります。 
 最初は1色でキャラクターを描かなくてはならず,それは結局フォルムだけの表現でした。3色になると少しは楽になって,その次は8色……とやっていると,ある程度縛りがあったほうが面白いと感じるようになったんです」

 近年のスマホゲームでよく見かける,制限がないドット絵には,思うところもあるようだ。

 「たとえば著名なゲームのキャラクターをドット絵にするといった企画がありますけど,あれはサイズの割に色を使いすぎだと個人的には思うんですよ。3ドットしかない幅の顔に3色使うってどうなんだろう,1色でもいいんじゃないかって。省くところは思い切って省くと,スッキリ見えると思うんですよね」


エレメカの部署へ異動となっても,“何でも自分で”


 小野氏が主な仕事としていたアーケードゲームは,1990年代に入ると3DCGの時代に突入する。それによってゲームのリッチ化,リアル化が進み,インパクトは増大したが,そんな時代を小野氏はどのように見て,どのように生きたのだろうか。

 「3DCGを否定するわけではありませんし,実際素晴らしいものですが,私のいる世界とは違うなと。ビデオゲームがそっちに行っちゃうのかと寂しい気がしていました」

 だが,小野氏は3DCG時代が本格的に到来する直前の1989年頃に,ビデオゲームの部署からエレメカを手がける部署へと異動になっていた。アーケードのリッチ化やリアル化は実感できないままだったというが,エレメカの開発は非常に楽しかったようだ。

 「勉強になったし,面白かったですね。ナムコって,もともとエレメカの会社ですから。僕が入社してからは徐々にビデオゲームが主流になりましたが,ずっとエレメカの開発も経験しなくちゃと思っていたんです」

 小野氏がそこで初めて担当したのは,「ばーがーしょっぷ」という子どものライド(乗り物)だった。

 「車体はそのままでギミックや外装を変え,将来的に何種類かのシリーズものを作るというコンセプトだったと思います。その企画設計を任されたんですが,それまで設計図面を描いたことがなかったんです。
 筐体のデザインをすれば,専門の人が図面に起こしてくれると思っていたんですが,『お前がやるんだよ』って言われて,『マジっすか』って。結局描きましたけど(苦笑)。
 当時はCAD(コンピュータを用いる設計)なんてなかったんで,製図台で描いたんですけどね。でも逆に考えれば,そうやって何でも自分でやれたので,楽しかったですよ」


携帯電話向けコンテンツで,再びドット絵を手がける


 エレメカの部署に移って10年が経った頃,小野氏は石村繁一氏から,ナムコの新規事業である携帯電話向けコンテンツの仕事を頼まれた。この話も,本連載の第4回を読んでいる方はご存じの通りだ。

 「その頃の携帯(ガラケー)はモノクロ液晶だったので,イメージを1色で表現できる人材が部内にはいない,手伝ってくれと言われて,『はい,いいですよ』て(笑)。
 ちょうどその頃,新人がいっぱい入ってきたんですが,みんなスケッチなどがうまくて,自身の存在感を考えると,少しモヤモヤしていたんです。このままでいいのかなあ,みたいな感じでしょうか」

 石村氏の誘いは渡りに船だったというわけだ。

 「だから,携帯コンテンツは自分の強みを活かせる仕事だと思って,ワクワクしながらやっていました。新人のみんなは絵がうまくても,1色のドットで絵が描ける人なんていませんでしたからね。
 ドットの仕事は楽しかったですよ。エレメカの仕事ではドット絵を描かなかったので,10年ぶりくらいでしたから。お手伝いさせてもらってよかったです
 当時の携帯の画面解像度は低くて,96×96ドットというものもありました。今のスマホアプリのアイコン以下なんですけど,やってるうちに感覚って不思議と戻ってくるんです」

 小野氏は10年以上にわたって携帯電話向けコンテンツを手がけることになったが,その時代をこう振り返っている。

 「ビデオゲーム,エレメカ,そして携帯ゲームと,約10年のサイクルで異動がありましたが,結果的にはその携帯ゲームの仕事が一番長くなりましたね。
 僕は世間の流れに合わせて自分を変えていこうという気持ちがなくて,常に独自の路線を進みたいと思っているんです。
 ナムコではたまたま時代の流れがうまく合って,いろいろなお手伝いができました。そういった形で新しいことができるのはいいと思うんですが,自分のやってきたことを変えてまでっていうのはどうなんだろう,と感じています」


「もうドット絵の需要はないよ」


 小野氏は2013年にバンダイナムコスタジオを退職した(ナムコは2006年にバンダイナムコゲームスとなり,その開発部門が2012年4月にバンダイナムコスタジオとして分社化)。

 「2012年の終わりごろでしょうか,面談で当時の上司から『ゲーム業界では,もうドット絵の需要はないよ』みたいなことを言われたんです。
 そうなのかと受け止めましたが,自分がやりたいのはドット絵ですし,ドット絵しか描けませんから,それを使っていろいろ新しいことを生み出していきたいと思いました。結局,2013年に早期退職制度を使って退職したんです。
 振り返れば,はっきりとそう言われたことがよかったなと。自分としては区切りがつきましたし,現在こうしていろいろなこともできているし,結果オーライだったと思いますね」


意外なところからドット絵の依頼が届く


 「もうドット絵の需要はない」と言われて会社を辞めた小野氏だが,すぐにドット絵の仕事が舞い込んできた。

 「退職して1年も経たないうちに,バンダイナムコから『アイドルマスターに登場するキャラクターのドット絵バージョンをお願いしたい』と依頼があったんです。需要はないって言われてからちょっとしか経ってないじゃん,あるじゃん……って思いましたけど(笑)」

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 その仕事は,PlayStation 3用ソフト「アイドルマスター ワンフォーオール」のロード画面でかわいく動くキャラクターを作るものだった。

 「実は『アイドルマスター』というコンテンツがどんなものか,ほとんど知らなかったんです。女の子が出てくる育成ゲーム,くらいの認識でしたかね。
 まず資料を見ながらサイズを決めて,16×16ドットで作ってみたんですが,正面向きで顔の表情を付けることを考えると小さい。さらに輪郭もつけなくてはならなかったので,32×32ドットに決定しました。
 色はなるべく少なくしたかったんですが,キャラクターの大きさを考えると単調になりそうだったので,結局15色にしました。立ちポーズを作ってから,歩きポーズ,アクションポーズと段階的に作って全14体,それぞれかわいくできたと思っています」

 最近のゲーム開発では,当初想定した仕様が実機で満足に動かず,グラフィックスのクオリティを落とすといったことがよくあるようだが,最初に厳しい制限を設け,様子を見ながら徐々に緩めていくのは,それと対照的だ。実に小野氏らしい手法と言えるだろう。


“ドット絵人口”は意外に多い


 ドット絵には,余計なものを極限まで削ぎ落としたシンプルな美の追求,様式美があるように思う。
 インディーズゲームには,いまだにドット絵であることを謳うものが多いが,それは作りやすいからだけでなく,前述したようにプレイヤーのイマジネーションを借りることで,ゲームに奥行きを持たせられるからではないだろうか。

 そんな魅力があるとはいえ,やはりゲームをはじめとするグラフィックスの主流は3DCGであり,ドット絵技術の継承が気になるところではある。そのあたりを小野氏に聞いてみた。

 「僕のドット絵,ドットアートは,再現するサイズや色数を制限したなかで展開しているものです。そういう面白さを多くの人に知ってもらいたいと思います。
 これまでは古いとか言われていましたが,最近レトロゲームがブームになっていますよね。だからドット絵を描く人や描きたい人って,結構いるんですよ。イベントも盛んで,『Pixel Art Park』(※)は今年も12月に開催の予定です。開催ごとに規模が大きくなってきていて,とても嬉しいことですね」

※日本最大級のドット絵の祭典。2018年は5回めの開催となる


ドット絵はアートになっていく


 小野氏のドットアートでも出色の作品は,世界の名画をドットで再現したものだ。

ドットアートのモナ・リザ
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 それらは一目見ただけで,あの有名画家の,あの名作と気付けるほどの再現性を持っている(もちろん,オリジナルとなる作品の知識がなければ難しいが)。
 あらゆる色や技法を使って描かれた名画作品の特徴を残しつつ,極限まで削ぎ落とすという,ドットアートの極みが感じられるものばかりだ。

「マッピー」
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 「ドットアートの絵画シリーズは,『マッピー』の開発で『モナリザ』をドットで表現したことが原点なんです。こういうテクニックも後世に残したいと思うんですが,今のところ,どこからも声はかかっていないですね(苦笑)。
 個人的には,ゲームよりもアートのカテゴリーで『ドットアート』として広がっていけばいいと思っています。自分も,まだゲームというところを若干引きずっている気がしますが,それを払拭したいですね。
 ですから,『Pixel Art Park』のような展示会への出展はいい機会だと思っています。トークショーなどをやる機会もありますが,なるべくゲームに偏らないようにしているんです。まぁ,なかなかそうもいかないんですが……」

 そのような思いから,小野氏はオリジナルキャラクターアイテムの開発だけでなく,多種多様な業種のメーカーから依頼があるコラボ商品開発など,『ドットアート』をキーワードに,さまざまな活動を行っている。

 それをビジネスパートナーとして支えるのが,LAND&SEAの山本周史代表取締役だ。山本氏も小野氏の作品に魅せられた1人,ゲームレジェンド(※)で小野氏が描いたオートバイのドット絵を見て,その完成度に驚いたことが,現在展開中であるMr.ドットマンブランド設立のきっかけだという。

※レトロゲームやマイナーゲームなどを中心とした同人即売会。年2回開催

小野氏(左)と山本氏(右)
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 山本氏は,これからのドットアートをこう語っている。

 「ドット絵の技術は,もともとビデオゲームに使うもの,ブラウン管の中だけのものでしたが,これからはその外に飛び出して,小野さんが培ってきた技術を『ドットアート』という新たな表現手法として楽しむ時代になるといいな,と小野さんと話しています」

 山本氏がそう考えるのには,歴史に裏付けされた理由もあるようだ。

 「例えば写真がない時代の絵画には,『記録』の意味がありましたし,画家は特別な技術を持つ記録係でした。時代が進んで写真が誕生すると,記録の役目は写真と写真家が担うことになりましたが,それで画家がいなくなったわけではありません。
 そして現在,カメラはスマートフォンにも搭載されて驚くほど世の中に普及し,誰でも気軽に写真を撮れるようになりましたが,職業としての写真家もまたなくなってはいません。むしろ,絵画や写真の素晴らしいアーティストが今も世界中に誕生し続けています。
 絵画も写真も,一部の人にしか使えない実用技術から,誰もが使える表現技術に姿を変えて,今も生き続けているんです」

 そして山本氏は,小野氏の原体験を作品にしたいと思っているという。

 「小野さんが幼少期に見た銭湯のタイルアートを小野さんが自ら手がけるというプロジェクトは,いつか実現したいです。銭湯のオーナーさんに話を持ちかけてみようかと考えているところです。
 もちろん『国内』『銭湯』にこだわるつもりはなくて,モザイクタイルが壁一面に描かれた海外の教会などを,小野さんが手がけるところは,僕が一番見てみたいです。
 これで,ドットアートっていいなと感じる若い人が現れて,また,違う才能が生まれてくるかもしれない。『ドットアートの伝道者』として,チャレンジしていきたいですね」

 小野氏も山本氏同様に,今の活動を楽しんでいる。ドットアートとしての展開が目立ってはいるが,ゲームを忘れてしまったわけではない。

 「今でもゲームは作りたいですね。もちろん,あくまでドット絵を使ったものですが。4月に海老名市文化会館で開催された『ドットアートの世界展』でも,来場した子供たちがドットアートを見て『マインクラフトだ』って言うんですよ。ドット絵というものが,今また新しく感じられるようになったんでしょうね」


Mr.ドットマンの名付け親


 小野氏も山本氏も,「ドット」という響きをとても気に入っているという。「ピクセル」ではなく,「ドット」の理由を,山本氏はこう語った。

 「ドット(Dot)は本来英語で『水玉』を意味する言葉なので,形状としては丸いはずなんです。でも実際のデータ上は四角ですよね。
 なぜその四角いものがドットと呼ばれるようになったかというと,当時のブラウン管特有の『にじみ』が影響しているようなんです。にじんで丸く見えたから『ドット』。当時の技術レベルから生まれたというわけなんですが,すごくいいと思いませんか?」

 このエピソードを聞くと,確かに小野氏が手がけるのは「ドット」であって,「ピクセル」ではないと思わされる。山本氏はこう続けた。

 「4月に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』の台詞が『ドット』となっていたので,嬉しくなりました。やっぱり当時のビデオゲームを語るうえで,『ピクセル』だと僕らのニュアンスに合わないんですよ(笑)。
 ちなみに,ナムコの代表作であるパックマンのジャンルは『ドットイートゲーム』です。
 だから,胸を張ってこう言いたいんです。当時最先端のビデオゲーム開発技術と,素晴らしいビデオゲームの文化を産み出したナムコという企業と,故中村社長の開拓精神に最大級のリスペクトを込めて。僕らはMr.ピクセルマンじゃなくて,Mr.ドットマンなんです! って(笑)」

 その「Mr.ドットマン」の由来を小野氏に尋ねてみると……。

 「当時,ナムコ直営のゲームセンターで配布していた『NG』という広報誌に,キャラクター制作講座を書くことになったんです。そこではなぜか僕が『ミスタードットマン』と紹介されていたんですよ。
 そのページを構成していたのは,同じ部署にいた企画のスタッフらしいので,その人が名付け親じゃないかと。ただ,「ドット絵」というワードをナムコで最初に言ったのは私だったはずなので,そこから『Mr.ドットマン』という名前を思いついたのでしょう。
 その人に会う機会があったら聞いてみようと思っているんですが,残念ながらなくて,分からないままなんです」

ナムコの広報誌「NG」(写真提供:アキハバラ@BEEP )
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 小野氏と山本氏は「Mr.ドットマン」の商標権を有している。偶然だが,取材当日は権利の取得からちょうど1年という区切りの日だった。


Mr.ドットマンの新たなチャレンジ


 今回の取材で印象に残ったのは,「僕は世間の流れに合わせて自分を変えていこうという気持ちがなくて,常に独自の路線を進みたいと思っているんです」という小野氏の言葉だ。

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 この言葉を体現するかのように,小野氏や山本氏に加えて,かつて共にゲーム開発に勤しんだ仲間が再び集結した。
 そうして生まれたのが,PC向け格闘ゲーム「ドットの拳GIGA」だ。小野氏が16×16ドットで描いた「蛙」「兎」「風神」「雷神」という登場キャラクターは「鳥獣人物戯画」にヒントを得ている。

 レバーと2ボタンの簡単な操作方法ながらも,コマンド技やキャンセル,コンボ,空中コンボ,目押しコンボ,超必殺技といった要素が取り入れられた本作は,複雑で高難度になった近年の格闘ゲームとは違い,初心者から上級者までが,格闘ゲーム本来の面白さ,楽しさである「駆け引き」を純粋に楽しめるものとなっている。

画像集 No.020のサムネイル画像 / ビデオゲームの語り部たち 第7部:Mr.ドットマンこと小野 浩氏が,制約の中で追求した自由
「ドットの拳GIGA」の詳細は,公式サイトで確認してほしい
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 小野氏とともに開発の中心となったのが,中潟憲雄氏だ。
 中潟氏は,「源平討魔伝」「サンダーセプター」「超絶倫人ベラボーマン」などの楽曲を手がけ,小野氏と同じようにナムコの黄金期を支えた。そのサウンドの特徴は,「和」を感じさせながらも意外性に富む曲調である。

 そして「ドットの拳GIGA」は,Mr.ドットマンブランド初のゲームタイトルでもある。ナムコでのつながりが,小野氏の新たな一歩となる作品を生んだのだ。

 ナムコの元社員同士のつながりは強い。筆者は取材するたびにそう感じるし,誰かを取材すると,次の元ナムコ社員に話がつながることもよくある。
 それは良き時代に,熱い時間を共有したからこそ生まれる絆が,脈々と息づいているからかもしれない。

 小野氏もその絆を感じているようだ。

 「ナムコ卒業生同士のつながりは強いですね。今になって,当時とはまた別の交流が広がってきていて,楽しいですよ。裏交流というか……まあ別に裏じゃないんですけど(笑)。
 普通は一度別れちゃったら,なかなか会えないじゃないですか。やっぱりクリエイターとして,仲間としての連携みたいなものがあるんだろうと思います。おそらくナムコ独特の,モノを創るのが好きな者同士の,強い絆のようなもの,ということじゃないでしょうか」

 目まぐるしく変わる時代の中でも,小野氏は必要以上に自分を変えず,古い仲間との絆を生かして,新たな作品を生み出し続けている。それはあたかも幼少の頃に見たタイル絵のように,制限・制約の中で,自分が持っているものを自由に組みあわせることを楽しんでいるようにも感じられる。 

 ドットを愛し,ドットに愛される小野氏の無限のイマジネーション,好奇心,チャレンジ精神といったドットは,これからもつながり,広がっていくことだろう。

画像集 No.013のサムネイル画像 / ビデオゲームの語り部たち 第7部:Mr.ドットマンこと小野 浩氏が,制約の中で追求した自由

著者紹介:黒川文雄
画像集 No.016のサムネイル画像 / ビデオゲームの語り部たち 第7部:Mr.ドットマンこと小野 浩氏が,制約の中で追求した自由
 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設

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