連載
ビデオゲームの語り部たち 第2部:「バーチャファイター」のプロトタイプに込められた石井精一氏の人生
1993年12月,ビデオゲームの歴史を変えるアーケードゲームが,セガ・エンタープライゼス(当時。以下,セガ)からリリースされた。フルタイムの3次元コンピュータ・グラフィックス(以下,3DCG)で開発された対戦格闘ゲーム「バーチャファイター」である。
セガの3DCG専用アーケードゲーム基板「MODEL1」(モデルワン)上で稼働したバーチャファイターは,個性豊かな8人(+隠しキャラクター1人)の格闘家たちがダイナミックに躍動する様を表現して,ゲームファンを驚愕させた。当時の熱狂ぶりをご存知の方も多いだろう。
前例のない挑戦だっただけに,バーチャファイターの開発にはさまざまな苦闘があったのだが,その詳細については,語られていないことが数多くある。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,バーチャファイターの知られざる開発エピソードを,同作のディレクションを担当した石井精一氏に聞いた。氏が作り上げ,バーチャファイターのベースになったというプロトタイプの存在についても語ってもらっているので,じっくりと読み進めてほしい。
初志貫徹してゲームクリエイターに
「私がバーチャファイターを語るには,そのプロトタイプを思いつくまでに自分が積み上げてきたものまで含めないと,うまく説明できません」
石井氏はそう言って,自身のルーツを語り出した。
「小学生のとき『スペースインベーダー』に衝撃を受けて,いつかゲームを作りたい,絶対に作るんだ……と強く思うようになりました。
以来,ゲームセンターが遊び場の一つになりましたし,マンガを読んだり,アニメや映画を観たりするときも,ただ楽しむのではなく,『いつかゲームを作る時の参考にしよう』という気持ちを常に持つようになったんです。そして実際に,中学1年生の頃にはパソコンのPC-8001を買ってもらい,ゲームを作っていました。端から見たら変な子供だったと思います」
初志貫徹してゲームクリエイターになったというわけだが,ゲームの好みも,子供のころから変わらなかったようだ。
「ファミリーコンピュータ(以下,ファミコン)の人気が出てからも,どちらかといえばゲームセンター派でしたね。プレイするのに何時間もかかるゲームは,遊ぶことがほとんどありませんでした。
ジャンルで言うと,RPGやFPSは正直なところ苦手です。RPGを熱心に遊んだのは『ドラゴンクエストIII』や『ダンジョンマスター』くらいでしょうか。」
そんな石井氏が「自分に向いている」と思った数少ないコンシューマゲームは,「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」「ゼルダの伝説 夢を見る島」だったという。
「経験値やレベルで強くなるのではなく,新しいアクションができるようになることで強くなっていくゲームなので,プレイ時間=強さではないんです。感覚やひらめきが重要になるところが好きでした」
この「感覚」や「ひらめき」といった要素は,氏の中で非常に大きいようで,バーチャファイターにも少なからず影響を与えていることがうかがえる。
「当時の対戦格闘ゲームをプレイしていても,不満に思うことがありました。動きや技に記号的な印象があって,負けたときに,なぜ自分がやられたのか,納得がいかなかったんです。
直感で戦っても負けてしまう。勝つためには,ゲームを覚えていくしかないということです。もちろん,覚えることもゲームにおける楽しみの1つですが,直感や反射神経で戦っていける部分とのバランスが,納得いかなかったのかもしれません」
石井氏はゲームだけでなく,格闘技にも子供の頃から親しんでいた。
「父が空手をやっていたこともあり,格闘技にはずっと興味を持っていました。自分でも柔道と剣道を少々やっていましたし,『空手バカ一代』『ドラゴンボール』『拳児』など,格闘シーンが出てくる漫画もいろいろと読んでいました。ジャッキー・チェンの映画にも影響されたと思います。
それと,前田日明選手が立ち上げた格闘団体の「RINGS」(リングス)が好きで,その試合をよく観ていました。それがゲームキャラクターのアイデアや個性を出すのには役立ったと思っています」
石井氏は「ゲームを作る」という意志を失うことなく,大学では色彩構成やグラフィックスデザイン,造形のほか,コンピュータグラフィックスを勉強し,1990年にセガへ入社する。
「採用面接や,配属先を決める社内面接では『絶対にアーケードゲームを開発したい』と訴えました。入社後,デザイナーとしての研修を2週間受けた後に配属先が決定されるのですが,採用試験の結果待ちより,配属先が決定するまでのほうが緊張していたくらいです」
アーケードゲームにこだわった理由は,3DCGだった。
「コンシューマゲームが本格的に3DCGを使えるようになるのは,PlayStationやセガサターンが発売された1994年以降なので,当時ビデオゲームで3DCGをやるなら,アーケードゲームしかありませんでした。
そのアーケードゲームでも,リアルタイム3DCGのゲーム開発を行っていたのは,当時のナムコだけだったので,セガでその立ち上げから参加したいと思っていたんです。今ではPCやコンシューマ機でも3DCGが当たり前なので,このときの気持ちはなかなか伝わりにくいですかね……」
その頃,セガでアーケードゲームを作っていたのは,第1研究開発部(1研)と第8研究開発部(8研)だった。
「熱意が実ったのか,裕さん(鈴木 裕氏)が部長を務めていた8研に配属されることが決まりました。ちなみにですが,8研は1研の分室だったんです。
その後,社内の組織をAM(アーケードゲーム)とCS(コンシューマゲーム)に分ける組織改編があって,8研は第2アミューズメント開発部(AM2研)になります」
こうして石井氏は,鈴木氏の下でまず「バーチャーレーシング」の開発プロジェクトに参加することになる。
「3DCGデザイナーは自分しかいなかったので,裕さんの直属でした。そのおかげでバーチャレーシングができるまで,ゲーム作りに関していろいろ学ぶことができましたし,それはいまでもすごい財産になっていると思います」
また,石井氏は与えられた仕事のかたわらで空き時間を活用し,1人でこつこつと3DCGゲームのプロトタイプを試行錯誤しながら作っていた。これがのちのバーチャファイターにつながっていく。
打倒ストIIを目指し,3DCG対戦格闘ゲーム開発の指令が下る
石井氏がセガに入社した頃のアーケードゲーム業界では,1991年にカプコンからリリースされた対戦格闘ゲーム「ストリートファイターII」が大きなムーブメントを巻き起こしていた。
「その頃のセガは,対戦格闘タイトルで試行錯誤していたと思います。先輩たちも,2Dグラフィックで3D空間を疑似的に再現した『ダークエッジ』(AM3研),アニメ的な手法を活用した『バーニングライバル』(AM2研)などを送り出しましたが,ストリートファイターIIの牙城を崩すことはできませんでした。
とはいえ,『できません』『作れません』では通りませんから,バーチャレーシングで成功を収めた裕さんに,会社から3DCGの対戦格闘ゲームを作れという指示があったのではないでしょうか」
これがバーチャファイター開発のきっかけとなるわけだが,人間の3DCGを自由自在に動かすには,まだ高いハードルがあったため,当初は少人数での実験的なプロジェクトとして始まったようだ。
「ゲームに限らず,映画でも,高いクオリティで人間が動く3DCGはほとんど存在していませんでした。あったとしても,上半身だけとか,指だけとか,そんなレベルです。3DCGのキャラクターをリアルに動かすゲームや映画ができるのは,まだしばらく先の話だと思っていた人も多かったと思います。
キャラクターを効率的に動かせるシステムとしては,3DCG制作用ソフトウェア『Softimage』のインバースキネマティック(※)が登場していましたが,実装されたばかりだったので,みんなその可能性に気づいていなかったのではないでしょうか。バーチャファイターは,それに気づかせるサンプルにもなったと思います」
※複数のオブジェクトを関節で連結し,アニメーション化する手法のこと
それまでの常識を変えたバーチャファイターのプロトタイプ
3DCG対戦格闘ゲームの開発という,前例のない手探りでの挑戦が会社から正式に承認され,1993年のアミューズメントマシンショーでの発表に至ったのには,石井氏の作ったプロトタイプの存在が大きかったという。
鈴木氏はこのプロトタイプを見て,バーチャレーシングではいちスタッフだった石井氏を開発リーダーに任命したというから,その重要性がうかがえる。これは果たしてどのようなものだったのだろうか。
「バーチャファイターは,モーションそのものがゲームシステムであり,ゲームバランスです。モーションの積み重ねと,そのモーションの効果をスクリプトに記入していくことが,ゲームそのものを作っていくことなんです。
それ以前のゲームは見た目のグラフィックスとコリジョン(当たり判定),操作性はそれぞれ別に作るものでした。なので,ビジュアルが完成していなくてもゲームとしては成立している,ということがあり得たのです」
つまり,バーチャファイター以前の対戦格闘は,キャラクター同士のグラフィクスが触れていなくてもヒットと判定させたり,攻撃判定の発生を早めたりして技の使い勝手を良くするといったことが可能だった。それをバーチャファイターは,3DCGで作られたキャラクターの体が触れないと攻撃判定が発生しない仕組みにして,バランス調整を「キャラクターの動き方」で行うようにしたのである。考え方としてはシンプルだが,ゲームとして成立させるのは一筋縄ではいかない。
「当時,ゲームの世界にモーションという概念は存在していませんでしたし,当然モーションキャプチャシステムもありませんから,どの程度の質で,どれくらいの量のモーションを作ればいいのかも分かりませんでした。そもそも,モーションでゲームが作れるとは誰も思っていなかったでしょう」
作れると思っていなかったものがプロトタイプとして上がってきたのだから,それを見た人が受けた衝撃は相当なものだったろう。
ちなみに,バーチャレーシングにはタイヤ交換をするピットクルーが登場するが,このときに使った手法では,バーチャファイターを作るのは難しかったという。
「ピットクルーのモーションは,ポーズを数フレームごとに登録し,その間にあるフレームを補完する手法で作りました。それだと,バーチャファイターに必要なリアリティのあるモーションはできないと思ったんです。
余談ですが,バーチャレーシングの開発中,モーションの研究として映画「酔拳」に登場するジャッキー・チェンの動きをトレースしたことがありました。その時はまさか自分が3DCG対戦格闘ゲームに関わるとは思っていませんでしたが……」
バーチャファイターの方向性を決定づけたプロトタイプは,どのようにして生まれたのだろうか。
「バーチャファイターのようなリアルな動きに基づくゲームを作るためには,2Dゲームの方法論とは違ったやり方が必要で,それを模索し,悩んでいました。また,それと並行して,モーションデザインに対する自信のようなものも生まれていたんです。
そんなとき『CGデザイナーやプログラマーが納得する対戦格闘のモーションを作ってしまえば,何かが大きく変わるかもしれない。最初の一歩,ゲームの方向性を決めるものになるのではないか』と思い至ったんです。自転車に乗っての帰宅中だったので,『明日,会社に行ったら自分でモーションを作ってみよう』と決めました」
そのとき,石井氏の頭の中には,3DCGならではのリアルなハイキックのイメージがしっかりとあったようだ。
「相手に向かって一気に踏み込み,軸足に力をため,そこから腰の回転が誘導されて,けり足がしなるように相手の頭部をねらい,膝から先が加速して蹴り抜くというようなイメージ……と言えば分ってもらえるでしょうか」
石井氏は翌日出社すると,さっそくそのハイキックのモーション作りに取りかかった。
「その日の作業は今でも明確に覚えています。体が覚えているといった感じです。9時頃から始めて,昼休み前に終えたのですが,その瞬間,自分の手足がぐっと伸びたような,届く範囲が広がったような達成感がありましたね。
そこから数日で最低限必要な基本のモーションを作り,シリコングラフィックスのIndigoで動くプロトタイプとして完成させました。ここで作られた基本モーションは,製品版でも変わっていません」
プロトタイプとは言え,製品版にも使われた基本モーションを数日で作ってしまうとは,かなりのスピードだ。
「ハイキックが3時間でできたから,1日にいくつかのモーションを作ることだってできる,その気になれば全部自分でできるのではないか,と思いました。
そのスピードで作れたのは,インバースキネマティックで人体の動きを研究していたことが大きかったと思います。元々あった知識を増幅できる方法を思いついたという感じで,自分の能力を表現する手段を見つけたような気がしました。
言ってみれば,アムロがガンダムを手に入れた時の感じでしょうか(笑)。分かりにくい例えですみません」
前述したように,石井氏は,プロトタイプを見た鈴木氏からリーダーに任命された。
「そのときに考えたのは,今までの対戦格闘ゲームとは触り心地が違うものにしようということでした。キャラクターたちがリアルに動き,対戦相手のモーションを見て対応できるもの。その結果として,負けても納得できるようなものです。
開発中にほかのメンバーから,『相手に後ろを取られた場合は自動的に振り向いてほしい』という意見がありましたが,勝手にプレイヤーキャラが動くのはこういった方針に合わないため,採用しませんでした」
ほかにも,ゲームの基本的な部分には,格闘技に親しんできた石井氏らしいアイデアが盛り込まれている。
「格闘技ならリングアウトもあるだろうし,その一方で飛び道具系の攻撃は絶対に出すべきではない。また,私闘ではなく競技として誰が一番強いのかを決めるというコンセプトも必須でした。何でもありの単なる体力勝負ではないし,なんなら自分の意思でリングアウトできる。このようなリアリティの演出は,譲れない部分だったんです。
バーチャファイターはルールに則った競技で,キャラクターは自分と一体である……ということを重要視していました」
1993年のアミューズメントマシンショーでの発表では,同年12月リリースということも合わせて告知され,開発は一気に加速する。
「そこから開発チームの人数が一気に増え,私がモーションの作り方をほかの人へ教えることになりました。しかし,私が納得できるモーションを作れる人は,なかなかいないと分かったんです。
ほかの人が作ったモーションがノイズのように感じられて,『自分だけで作る』と抵抗したのですが,そこは組織,会社の論理が優先されます」
個人的には不満だったが,結果的にはそれでよかったという。
「ほかのメンバーが作ったモーションを実際にゲームへ入れてみると,それはそれでいいと感じることもありましたし,テストプレイでの反応を見て,面白くなると思いましたから。
基本的なモーションがしっかりしていれば,ゲームはちゃんとしたものになり,基本モーションと見た目が大きく違う技は,必殺技になり得るということです」
石井氏は,自身がバーチャファイターのプロトタイプを作ることができた理由を,こう分析している。
「プロトタイプの準備と企画開発には『アーケードゲームがどんなものかよく分かっている』『絵がかけて,自分でアニメを作れる能力がある』『CGソフトが扱えて,CGそのものを理解し,その当時の最先端技術を把握している』『プログラミングができて,コンピュータそのものをある程度理解している』『格闘技への理解と愛情を他者よりも強く感じている』といったことが必要でした。
こいういった能力を得られたのは,何事にも『ゲームを作るために役立つか』という判断基準で接してきたからだと思います。ちなみに,自分はいまでも,そういう傾向があります。ゲームを作るうえで,必要な能力や知識を自分で獲得するということです。何か新しいことに挑戦する場合でも,そう考えることでモチベーションを呼び覚ますことができるんです。
バーチャファイターに大きな影響を及ぼした作品たち
バーチャファイターのプロトタイプ開発には,石井氏が好きな漫画として挙げた「拳児」の影響も大きいようだ。
「プロトタイプの開発では,拳児をはじめとした漫画の絵から想像を膨らませてモーションを作っていました。そうしたほうが,デフォルメがきいて迫力のあるモーションが作れるんです。今でもモーションキャプチャのデータをゲーム向けに修正するときに役に立ちますから,イメージをふくらませてモーションを作ることは,この仕事を志す人にぜひ経験してほしいことですね」
拳児にはさまざまな拳法についての説明があったため,資料としても役に立ったという。
「拳児の単行本には,至るところに付箋が貼ってありました。裕さんにも強く勧めましたし,スタッフにも参考資料として読んでほしいと紹介したのを覚えています。
裕さんはかなり拳児にハマってしまったようで,会社のブックスタンドに置いてあった単行本を海外出張に持って行ってしまったこともありました。
そんな経緯もあり,裕さんはタイトル名を『バーチャファイター 八極拳』にしたがっていましたが,もしそうなっていたら,まったく違う世界観のゲームになっていたかもしれませんね」
八極拳は拳児の主人公,剛 拳児が学ぶ中国武術で,ご存じの通りバーチャファイターの登場キャラクター,結城 晶も使っている。
「拳児は一番好きな漫画で,特に番外編で描かれた李書文(八極拳の門派・李氏八極拳の創始者)のエピソードが印象に残っています。バーチャファイターを作った後に,このエピソードに出てくる人物お弟子さんに会うことができて,とても感動しましたし,自分が作った「猛虎硬爬山」のモーションと,実際の技が,どのように違うのかも教えてもらいました」
石井氏はバーチャファイターのキャラクター設定にも関わっていた。晶以外のキャラクターにも,漫画や格闘家にインスパイアされたものが多いようなので,それぞれについて語ってもらった。
「最初に作ったのはジャッキー(・ブライアント)でした。裕さんから,ドラゴンボールのスーパーサイヤ人をイメージして,と言われたのを覚えています。サラは映画『ターミネーター』に登場するサラ・コナーのイメージを膨らませたものです」
「ラウもドラゴンボールの登場人物である桃白白(タオパイパイ)風のキャラクターということで,開発ネームもタオだったんです。なので娘はパイになりました。そのパイは,お茶のコマーシャルに出演していたモデルの子にインスパイアされて,私がオリジナルのデザインを描きました」
「ジェフリーは当初はウィリーという名前でした。格闘技に詳しい方ならお分かりかと思いますが,“熊殺し”と呼ばれたウィリー・ウィリアムスから来ています。ウルフは当時新人だったデザイナーが一晩で考えてきた5案の中から採用しました」
「カゲは“定番”の忍者ですが,私がデザインスタッフに『忍者は必要だよ』と言って作ってもらいました。晶のモデルは,当時K-1で活躍していた佐竹雅昭選手,デュラルは,『リボンの騎士』のジュラルミン伯爵がルーツです」
こういったオマージュ感覚は,石井氏がナムコに移籍してから開発した「鉄拳」にも受け継がれているという。
「また,ラスボスであるデュラルは,目いっぱいポリゴンを使うという方針で作りました。逆にそのほかのキャラクターは,ポリゴンの面をより目立たせるようにしていますが,見た目の印象よりも多くのポリゴンを使っているんです」
人生を賭けるにふさわしい作品
自身が積み重ねてきたものを詰め込んだバーチャファイターの開発に携わった石井氏はこう振り返る。
「新しい革新的なコンセプトを持った対戦格闘ゲームこそが,自分の人生を賭けるにふさわしいものだと思っていました。バーチャレーシングの後,そのままレースゲームを開発していても「グランツーリスモ」シリーズにはかなわなかったでしょう。なぜなら,私はそこまでクルマやレースゲームが好きではないからです」
そして,自身が作ったプロトタイプを誇りながら,周囲のサポートがなければバーチャファイターの成功はなかったとも語る。
「プロトタイプ開発では自分の知見や経験,発想といったものを十分に生かしましたが,今思えば自分のわがままを通した部分もあったと思います。しかし,あのプロトタイプのおかげで,チームのスタッフの力を巻き込むことができ,裕さんや会社の大きな後押しを受けられたとも感じています。」
鈴木氏からはさまざまなことを学んだが,その1つは“視野”だったという。
「裕さんは,常に一般の人が楽しめるゲームを作ろうとしていたと思います。記憶はあまり定かではないんですが,当時のセガの受付嬢にバーチャレーシングをやってもらって,その様子をよく観察しないさいと言われたこともありました。狭い視野で突き進むだけでなく,広く,客観的な視野をもって,全体を見通すことが大切だということを学んだと思います」
石井氏は今でも,一歩引いた視野で全体を見ることを心がけているという。
「“常にプラスアルファの仕事をする”ということも学びました。言われたこと,指示されたことは素早くこなして,自分の考えや意見をプラスアルファする,ということです。
プロジェクトを実現に導くという点で,プロデューサーとしての裕さんの力はすごく大きかったと思います。リーダーはすべてを理解したうえで,最良の選択をし,実現させなくてはいけません。開発当時の自分には,裕さんが会社とやりとりしていたことはほとんど見えていませんでしたが,その後,自分が会社を立ち上げて,そのあたりの苦労や,裕さんのすごさを痛感しました。あの時,あの場所で,裕さんと仕事できたことは幸運でしたし,深く感謝しています」
今回の取材では,当時石井氏とともに仕事をした元セガ社員にも話を聞いたが,彼らは一様に石井氏の非凡な才能を評価していた。
印象的だったのは,「バーチャレーシング」開発中のエピソードだ。粗いポリゴンの3DCGで,レーシングマシンのタイヤが高速で回転する様子をうまく表現できず,ノッペリとしたものになってしまうことで苦慮していたとき,石井氏が「自分ならできます」と言ってきたという。
「どうやるのか」と聞くと「タイヤのトレッド面のカラーパターンを微妙に変えます」という答えが即座に返ってきて,半信半疑で依頼してみたところ,そう時間もかからずに仕上げてきたそうだ。そして実際にゲームに入れてみると,確かに高速回転しているように見えたという。
その元社員は,そのときのことをこう振り返った。
「改めて石井君のビジュアル的なセンスというか,卓越した発想力みたいなものを感じました。石井君がいなくても,技術の進化やゲーム産業の潮流として,3DCG格闘ゲームは生まれるべくして生まれたとは思いますが,今につながるものにはならなかったでしょう。
石井君が磨いてきたセンスやビジュアル,モーションへのこだわり,裕さんの統率力,あの時代のセガやAM2研という組織,そして新しいテクノロジーであるMODEL1基板が同じ場所にあったことで,奇跡的な化学変化が起こった。その結果として『バーチャファイター』が生まれたのではないかと思います」
バーチャファイターの開発から,25年という時間が経とうとしている。その間,石井氏にもさまざまな紆余曲折があったが,今もゲーム作りを続けている。
「ここまで自分自身の記憶を整理し,歴史を振り返るのは初めてです。改めて,セガ,裕さん,当時のスタッフに感謝の気持ちを表したいと思います。
セガを退社後はナムコで『鉄拳』の開発に携わり,その後はドリ−ムファクトリーを創業して『トバルNo.1』『バウンサー』などを開発しました。今はカナダに在住しています。
かつてバーチャファイターのプロトタイプを思いついた時のような気持ちに立ち戻って,自分一人の力でどこまでゲームが作れるのかをテーマに,日々ゲームアプリの開発に取り組んでいます。
また自分の作品で皆様にお会いできることを楽しみにしています」
(2017年11月)
取材後記
私と石井氏が出会ったのは1993年,セガ・エンタープライゼスのAM2研だった。
当時のAM2研は京急羽田線の大鳥居駅に近くにあるセガ2号館にあった。そのフロアの窓際にあるアストロ筐体のモニターにつながれた,むき出しのMODEL1基板が「バーチャファイター」だった。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」第2部は,5年ほど前に石井氏がカナダから日本へ一時帰国したときに端を発している。
当時はちょうど「バーチャファイター」が誕生から20周年を迎え,それを記念する書籍やイベントが数多く企画されていた。しかし,バーチャファイターを語るうえで欠かせない存在であるはずの石井氏を取り上げるメディアはほとんどなかったのである。ならば自分が彼に聞こう,と思い至ったのだ。
今なお「個人の力でできることを最大限に発揮したい」と熱く語る氏の姿勢は,頑固な職人のようでもあり,若いインディーズゲーム開発者のようでもある。その衰えない気持ちに改めてエールを贈りたい。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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