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[CEDEC 2013]CEDEC 2013初日基調講演レポート。インターネットとARが切り開く,変化する 時代における新しいエンターテイメントの姿
登壇したのはコルクの佐渡島庸平氏と,AR三兄弟長男の川田十夢氏である。
「逆風を感じたい」
氏は現状を「明治維新のように,時代がとてつもなく大きく変わっている」と分析。しかし,具体的に黒船という目に見える脅威がやってきて,危機を肌で感じられた明治維新期と異なり,現状の変化はインターネットで起きているため,それが「見える人と見えない人がいる」と言う。「インターネットバブルが崩壊したという言辞はあるが,これは株価の問題に過ぎず,インターネットそのものが落ち着いたわけではない。むしろ今,インターネット時代の幕が開こうとしている」と氏は語った。
しかしながら,「これからはインターネットの時代」というのは,この10年くらい言われ続けてきた言葉でもある。これまでのインターネット時代と,これからのインターネット時代は,どこが違うのだろうか。
佐渡島氏は,インターネットの発達を,交通の発達になぞらえて説明した。
まずインターネット黎明期。これはいわば「道路が引かれた」時代であり,道路によって人の動きや流通が生まれたが,すぐに混乱して使えなくなってしまった。
そこに出現したのが「Yahoo!的なもの」,つまりカテゴリ検索である。これは「道路に信号ができた」状態であり,これによって交通はある程度整理されたものの,すぐに渋滞が始まってしまう。
Googleはこの状況に対して,高速道路を提供した。これによって交通は劇的に改善されたが,しかしこれは「道しかない」状況と言える。
その後出現したSNSは,いわば「新宿駅のような,大きな駅であり,公共の場所としてたくさんの人が活用するもの」であると氏は定義する。SNSによって人の流れは変化し,インターネットのあり方は変わった。
だがこれでインターネットが面白くなったかというと,そうではない。現実空間で言えば大型アミューズメントパークに相当するようなエンターテイメントが,ネット上には存在しないのだと,佐渡島氏は言う。
無論,ネット上にコンテンツが存在しないわけではない。だがそれらのコンテンツは「代替品でしかない」と佐渡島氏は指摘する。つまり「電子書籍は本の代替品だし,動画サイトはテレビの代替でしかない」(同氏)のである。こういった代替品ではなく,「インターネットでしかあり得ない新しいエンターテイメントが生まれ,それによって人間の生活や意識のあり方まで変化するのではないか」そして「明治維新後の数年間がその後の日本を規定したように,これからの日本がこの数年で決まる」と氏は続けた。
では具体的にどうすればいいのかということになるが,「何をすればいいのかわからなかった」(佐渡島氏)。氏が講談社を離れたのもそれが理由で,「講談社は自分に大きな自由を与えてくれたし,バックアップもしてくれたが,でも辞めたほうがいいと思った」「時代が大きく変わっているときは,会社に守られず,時代の空気をモロに感じたほうがいい」「それによって自分の感度を研ぎ澄まし,時代がどう変化するか読む」「逆風を感じたい」と,自分の会社であるコルクを設立したのだそうだ。
溶ける境界線
モーニングの編集者時代,氏は漫画も小説もノンフィクションも読んでいた。けれど,(かつての)モーニングには小説は掲載されていなかった。なぜか――それは「社内の部署が違うから」である。「それだけの理由で小説が載らない。ここには供給側の理屈だけで,ユーザー側の視点はまったくない」と氏は指摘する。結局,佐渡島氏はモーニングに小説家を招き,連載小説の企画を立ち上げたのである。このことについて氏は,「コンテンツの供給が過多になっているいま,作り手側の論理(供給側の都合)をぶち壊し,受け手側の事情を考えていかねばならない」と語っていた。
ユーザーの視点に立つと,映画,音楽,ゲームといったさまざまなコンテンツに対し,お金を払ったり時間を費やしたりするにあたって,ユーザーはもはやそれらを,細かく別のジャンルとしてカウントしていない,と佐渡島氏は指摘する。具体的に言えば,映画のチケットを買う予算と,ゲームを買う予算は,同じグループとして考えられていることが多いというわけだ。
このことはデバイスを見るとさらに顕著で,かつては本や映画,CD,ゲームそれぞれでデバイスがすべて別だったが,今ではスマートフォンという1つのデバイスにすべてが収まっている。つまるところ,ゲームや小説は,FacebookやTwitterといったものはもちろん,カレンダーアプリのようなものとも勝負しなくてはならない。これはコンテンツだけに留まる話ではなく,例えば,かつては明白に分かれていた電話とカメラは,もはやほぼ境界線がない(佐渡島氏)。
このように「境界線が溶けている」ということを,強く意識する必要があると氏は語った。
面積になる「面白さ」
もうひとつ意識すべきなのが「面白さが変化した」ということであると佐渡島氏は指摘する。
講談社時代,氏は「作品を読むと,その面白さを数値的に判断できるような人間になりたいと思っていた。そして,たとえば面白さが90の作品があるとすれば,それを91にするために膨大な労力がかかるとしても,その労力を投じていきたいと思って作品を作ってきた」という。だが近年では,そういった労力を投じても,作品が評価されることは少なくなってきたのだそうだ。
氏はこの原因が「自分が作品を見る目が落ちてきたのではないか」と危惧したというが,やがて「面白さが面積になっている」と考えるようになったという。つまり「絶対値としての面白さに,別の要素が掛け合わされて,それが面白さとして判断されるようになった」のではないかと分析したわけだ。
面白さを織りなす要素が,2つの軸に分かれたと考える場合,もう1つの軸を,氏は「親近感」であるとする。たとえば佐渡島氏自身,最近では週刊誌よりもTwitterやFacebookを見ることのほうが多いが,記事の完成度から言えば後者は前者に遠く及ばない。にも関わらず,実際にはTwitterやFacebookの文章を読む。
この理由は簡単で,TwitterやFacebookは「知り合いが書いているから」であると氏は語った。家族との会話は内容が他愛なくても面白いし,あるいはレストランでプロが作った料理と,母親の手料理が同じように美味しく感じるというのもこの「親近感」による掛け算効果。ゲームで言えばソーシャルゲームが持つ「ゆるい,ちょっとした親近感」は,据え置き機のゲームを押しのけるほどの勢いをソーシャルゲームに与えた(佐渡島氏)。
そういったことを踏まえ,「これからのコンテンツは,面白さが面積として掛け合わされていないと勝てない」というのが,氏の指摘である。
エンターテイメントの境界線が溶け,「面白さ」にもう1つの軸が必要になったのは分かったが,そういった状況に対し,具体的にどうすべきか。そんな悩みを抱いていた頃に佐渡島氏が出会ったのが,川田氏なのだという。
ARとは省略である
それはさておき川田氏は,まず「境界を溶かすのが自分の仕事だ」と語った。幼い頃,妹と2人で真面目に「かめはめ波」の練習をしていたという氏は,「現実と仮想の間は,それほど離れていないのではないか」と指摘する。そしてその「境界を溶かす」技術として,氏はARを活用していると述べていた。
その後,「境界を溶かす」ことの具体例として,いくつかの作品や技術が紹介されたのだが,その前に,いささか誤解されがちなAR技術に対する,川田氏の見解を紹介しておこう。
例えば特殊なカードがあって,そのカードをスマートフォンや携帯ゲーム機にかざすと何か映像が出てくる,という実装を「AR」としている例がある。これは実際ARであり,面白いものではあるが,「ARの5%くらい」でしかない(川田氏)。
では,ARとは一体どのようなものなのか。氏は「ARとは省略である」と定義しており,世の中のいろいろなものを省略することで社会を変える,それがARの意義だと考えているそうだ。
入力・出力・通信
「カードをかざすのがARではない」という実例として,川田氏は「目からビームが出るアプリ」を紹介する。これはカメラで取り込んでいる画像の「目」から,光線が撃ち出されるというもので,処理はリアルタイムで行われる。この「目」は人物の顔についている目であればなんでもよく,カメラに自分の顔を映せば自分の目から,紙幣の肖像画を写せば肖像画の目からビームが出る。つまり,現実と仮想の接点はカードに限らないというより,なんでも良いのである。
また漢字をARのマーカーにしたものも紹介された。「朝」と書かれたカードをカメラに写すと「コケコッコー」とニワトリが鳴く音がする。ここで「娘」と書かれたカードを同時に写すと,「モーニング娘。」の楽曲が流れる。「象」は単体では「パオーン」という象の鳴き声だが,「娘」と合わせると「エレファントカシマシ」の楽曲が流れる。
ボリューム調整は「音」のカードを回転させることで行え,「刻」カードを回転させるとテンポの変更ができる。これは,カードがARの根拠になるだけでなく,カードを用いて現実から仮想に命令を出すことを可能とした例である。
川田氏が制作した阪急梅田百貨店本店のホールにおける「拡張現実オーケストラ」も,ARの可能性と自由さを表す好例といえよう。
およそ300人前後が集まる同ホールを「楽しい場所」にするため氏が作ったのが,「拡張現実オーケストラ」である。仕掛けは簡単で,ホールに指揮台と指揮棒,そしてオーケストラを投影する大画面があるだけだ。お客が指揮台に登り,指揮棒を振るとオーケストラが演奏を始め,指揮棒を振る速度に応じてオーケストラの演奏速度も変化する。これによって,お客は一時的に指揮者になれる,という仕組みである。
川田氏は「拡張現実オーケストラ」を例に挙げ,「ARには必ずしも手元に端末がなくてもよい」ことを説明した。ARにとってカードが必須ではないように,スマートフォンのようなデバイスを,ARを利用するユーザーが持っている必要もないのである。
そして,ARにとって必要なのは「入力・出力・通信」である,と川田氏は定義する。入力・出力・通信があれば,さまざまなものを省略して,どこにでもARは作れる。「これからは入力・出力・通信がある場所がインターネットとなり,PCに縛られない」「コンテンツがデバイスに縛られない」(川田氏)というわけだ。
フィクションの内側に入る
これは宇宙兄弟の表紙をスマートフォンにかざすと,その表紙が描かれる工程が逆再生で表示されるというもので,いわゆる「メイキング映像」の一種と言える。従来はこういった映像特典は書籍に同梱するとか,Webページからダウンロードさせるなど,「別個の作品」として提供するしかなかったが,AR技術によって,1つのコンテンツの周囲に付随するさまざまな価値を,1つの作品内に宿してしまうことが可能となる。
また,アプリに付属する「月の方向を見つけられる機能」を用い,スマートフォンで「いま現実世界で月が存在する方向」を測定して月を捕捉すると,月面に至った宇宙兄弟の登場人物が,月からラジオ番組を放送し,その番組を聴けるようになる。この「月からの放送」は宇宙兄弟の新しいコンテンツになるが,こういった新コンテンツを発表する場としてもARは利用できる。
「月からの放送」は,現実とフィクションの境界を溶かすという役割も担っている。月に向けたスマートフォンから,漫画の中では(将来的に)月に向かう登場人物が放送するラジオ番組が聞こえる,という構造は,ユーザーに対してフィクションの内側に入っていく感覚を提供する。
そしてこの「物語に介入する」「物語の登場人物と会話する」感覚は,ARにとっても重要であると川田氏は指摘する。ARでは現実と仮想をつなぐポイントとなる要素を「ラビットホール」と呼ぶが,「ラビットホールがあれば,向こうがのぞける」のである。
川田氏は,コンテンツが「いままでそこにあった媒体」としてあり続ける必要性を失いつつあるとし,これはゲームにも当てはまることで,ゲーム機以外の場所にゲームを宿らせることも可能であり,その宿らせる場所によって面白さがまるで変わってくると語った。
現状のARは「かつての映画のようなもの」
だが氏は同時に,これは「かつての映画のようなもの」であるとする。最初の映画はリュミエール兄弟が作ったもので,時間にすれば30秒から1分程度,内容としてはまったく議論に値しないものであった。だが多くの観客は,その「映画」を列を成して観に行ったし,今では映画は芸術としても,エンターテイメントとしても,巨大なジャンルを成している。ARはこの,「黎明期の映画」に近いというのが氏の指摘である。
今後ARが発達していくにつれ,より長く楽しめる作品も増えていくだろう。そして尺が伸びればそこにいろいろなコンテンツが生まれ,より楽しい作品にもなっていく。細切れに非同期でコンテンツを消費できるため,尺の長さを柔軟に利用できるのも魅力だ。
また映画が成長するに従って,そこに脚本や監督,俳優,映画館といった職業やインフラが生まれていったように,ARもさまざまなクリエイターをどう使うのかが重要になってくるだろうと氏は語った。
それに関連して佐渡島氏は,「スタートボタンを押すまでの操作の気持ちよさといったものは,家電そのほかの世界では利用されていない。ちょっとした,一瞬の気持ちよさを作れるのはゲーム業界の強みであり,ゲーム以外の場所でも利用できる局面は多い」と指摘した。
最後に佐渡島氏は,「コンテンツをいろいろな場所に宿らせるのが重要になってくる。そしてそのために,川田氏の持っている技術や,そのための機材を作る技術が必要だ」とした。また「人生は所詮ゲームだという言葉があるが,インターネットによって時代は大きく変わってきた。日常生活すべてをゲームのように演出できるようになるかもしれないし,そこでは自分がゲームの主人公のようになれるかもしれない。比喩ではなく,人生はゲームだ,という状況を作り出せるかもしれない。それを実現させたい」と語った。
川田氏はこれを受けて「ゲームに関する知見や経験は,現実世界に対しても活かせる。ソフトでもハードでも,何か一緒に仕事ができたら嬉しい」と語り,講演を終えた。
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