企画記事
「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
完全受注生産方式でリリースされるため,予約が必須の製品となっており,期限は2026年1月23日まで。価格は1万7600円(税込)となっている。
名作ゲームブック「ファイティング・ファンタジー」シリーズの歴史をまとめ上げた書籍「You are the Hero」日本語版の受注生産が決定
SBクリエイティブは本日(2025年11月29日),イギリス発祥のゲームブック「ファイティング・ファンタジー」シリーズの歴史をまとめた書籍「You are the Hero」の日本語版を,完全受注生産で販売すると発表した。受注受付は2026年1月23日まで,価格は1万7600円(税込)。
同書は,「ファイティング・ファンタジー」シリーズの誕生から現在までを,自身もゲームブックライターであり,その隆盛を間近で見てきたジョナサン・グリーン氏が書き記した歴史書である。ただし,それはあくまでイギリス本国を中心で見た歴史であり,日本の状況への言及はごく限られている。
そこで日本語版「主人公はキミだ!」では,「日本におけるファイティング・ファンタジーの歴史」をまとめた書籍・日本編が新たに書き下ろされ,特別編として収録される予定なのだが……4Gamerでは,この日本編「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」を連載の形で先行公開することとなった。
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あくまでWeb公開版であり,書籍に収録されるに当たっては再編集が加えられる予定だが,それでも十分な読みごたえがあることは保証できるだろう。本書の購入を検討している人は,ぜひ参考にしてもらえたら幸いだ。
アナログとデジタルを行き来しながら,進化を続けてきたRPGの歴史の一側面を,今から共に繙いていこう。
「ファイティング・ファンタジー」とその時代
「火吹山の魔法使い」――それはまさしく,魔法の本であった。イギリスのスティーブ・ジャクソンとイアン・リビングストンの両氏が著した本作は,本格的なロールプレイングゲームを本という形で,しかも1人で手軽に楽しめる傑作として提示し,爆発的なヒットを記録。ゲームブックというジャンルを広く定着させることになった。
イギリスでは1982年に発売され,またたく間に世界各国を席捲した本作は,紆余曲折を繰り広げながらも,今日に至るまで多数の続刊やマルチメディア展開がなされ,「ファイティング・ファンタジー」(以下,FF)と呼ばれる一大シリーズを形成している。日本でも「ELDEN RING」(2022年)のディレクターである宮崎英高氏など,これでファンタジーやゲームに目覚めたと公言するクリエイターは少なくない。
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関連書としては,リビングストン氏による「ダイスメン:ゲームズ・ワークショップのオリジン・ストーリー」(以下,ダイスメン)の日本語版が,ニューゲームズオーダーから出ているが(白石瑞穂訳,岡和田晃・矢田部健史翻訳協力,日本語版2025年),これは当事者たるリビングストン氏の視点から,自身がジャクソン氏らと創業したゲームズ・ワークショップ社の歴史を綴ったものだ。
対して「主人公はキミだ!」は,あくまでもFFシリーズの歴史に焦点を当てたものである。関係者への豊富な取材に基づいた内容で,およそファンタジーゲームに関心がある者なら,手元に置いておきたい1冊となっている。
ただし,「主人公はキミだ!」で描かれるのはイギリス側の視点であり,当然ながら日本のことは中心にない。このミッシングリンクを埋めるべく,ここでは日本における「ファイティング・ファンタジー」の受容史を,とくに関係者の物故が続いている1980年代を中心に綴っていきたい。
なお,とくに断りのない限り,社名や登場人物の所属先等はその当時のものである。1へ進め。
1 ゲーム史をたどる冒険の始まり
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なので本稿も,本家に倣いゲームブック形式で綴っていくことにしよう――さあ,ページをめくりたまえ。次の選択肢のどちらかを選ぶのだ,主人公は君なのだから……。
2 ロールプレイングゲームの発展形態としてのゲームブック
RPGがすっかりメジャーになった今ではあまり信じられないかもしれないが,日本での黎明期において,「火吹山の魔法使い」に代表されるアドベンチャー・ゲームブックは,しばしば“双六と小説がドッキングしたようなもの”だと説明されてきた。
とはいえ,その表現は正しくない。ゲームブック紹介の第一人者の安田 均氏は,「ロールプレイングゲームの発展形態」としてゲームブックを捉えていた。小説や本にオマケ要素としてゲームをくっつけたのではなく,「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以下,D&D)のようなテーブルトークRPG(以下,TRPG)をダウンサイジングし,ソロプレイ可能な「本」としてまとめること※1。それこそが斬新で奥行きがあるゲームブックだ,というのである。
D&Dの初版は1974年に発売されたが,翌1975年に「トンネルズ&トロールズ」(以下,T&T)が刊行される。発行元であるフライング・バッファローの社長,リック・ルーミス氏(2019年没)は,デザイナーのケン・セント・アンドレ氏らとの雑談において,4つの選択肢から選んだパラグラフにジャンプする数学の本を,1人用のダンジョン探検に応用することを思いつき,1976年に世界初のRPGソロアドベンチャー「バッファロー・キャッスル」を発売した※2。
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T&Tは,1977年にイギリスにも紹介されている。もともとジャクソン氏やリビングストン氏が,D&Dをイギリスに輸入するところを1つの出発点としているのは,前掲の「ダイスメン」に詳しいが,当然,D&Dに限らず業界の動向に目を光らせていたのだろう。
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イギリスでRPGが浸透するのと並行して,子ども向けの本でも「きみならどうする?」のような,行き先のパラグラフを選択する本がメジャーとなり,1980年には日本語にも訳されている(全6冊,学研)。「火吹山の魔法使い」を受け入れる土壌は,すでに整いつつあったわけだ。
そしてイギリスでの評判を聞きつけ,いち早くチェックしていた文筆家が,日本に少なくとも3人いたのである。君は……。
- 幻想文学の評論やアンソロジーを精力的に発表していた紀田順一郎氏が思い浮かんだのなら,4へ。
- SF翻訳家・評論家として出発し,最新のSF事情としてファンタジーゲームを各誌で紹介し始めていた安田 均氏のことが気になるのであれば,5へ。
- 「火吹山の魔法使い」の名訳で知られる翻訳家・浅羽莢子氏の背景を探るのであれば,6へ。
※1:安田 均「ロールプレイを継ぐもの」,「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。
※2:岡和田晃「T&Tのあゆみ」,「トンネルズ&トロールズでTRPGをあそんでみる本」,冒険支援株式会社,2016年。
3 「ファイティング・ファンタジー」の前史
ゲームブック的なものの起源をたどれば,それこそ架空の本の翻訳という体裁をとったセルバンテス「ドン・キホーテ」(1605〜1615年)や,荒唐無稽な遊び心に満ち満ちたロレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」(1759〜1767年)あたりにまで遡れるだろう。
19世紀の家庭でプレイされたパーラーゲームにもゲームブック的な試みがあったし,20世紀に入っても,黄金時代のミステリ小説などに「ゲームブック」と銘打っているものが存在する。
日本ではどうなのか? 江戸時代のめっけ絵や絵双六のような近世日本の出版物は,広い意味でのゲームブックと言えるし,戦後日本でも「小学一年生」など学年誌の付録に,1940年代後半〜50年代前半から「ゲームブック」と銘打たれたものがあったのが確認できる。ただし,これらは概ね学習目的の算数パズルや,双六の域を出るものではなかった。
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山野浩一「鳥はいまどこを飛ぶか」(1971年)や,アルゼンチンやパリで活躍した作家フリオ・コルタサルの「石蹴り遊び」(1963年,日本語訳は1978年)が該当するが,これらは冒険というより都会的な感覚をもとに書かれた前衛小説としての性格が強い。
対して「ファイティング・ファンタジー」のようなアドベンチャー・ゲームブックは,民話やおとぎ話の伝統にも通じる土俗的で泥臭いモンスターが雰囲気たっぷりに描写され,絶対的な正義の存在しないダークな世界を描いている。その中で,読者は「君」という二人称で呼びかけられ,指示されたパラグラフを選択して冒険を繰り広げる。
そして文章表現とあらかじめ示されたルールを両輪として,読者は没入感を削がれることなく,「ゲームを遊んだ」という確かな経験を手にすることになる。2へ。
4 紀田順一郎氏が着目した迷宮感覚
惜しまれながらも2025年に亡くなった紀田順一郎氏は,“古書もの”ミステリの代表作たる「古本屋探偵の事件簿」シリーズなどで知られる作家だが,荒俣 宏氏と共に欧米の怪奇幻想小説を翻訳・紹介する雑誌「幻想と怪奇」(三崎書房,のち歳月社)や,ヨーロッパのみならずラテンアメリカをも守備範囲とした「世界幻想文学大系」全45巻(国書刊行会)の編集などで,幻想文学の紹介に深く関わってきた第一人者でもある。
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そして,目の前の現実と縁もゆかりもない夢幻の世界を扱う幻想文学の世界に深く没頭することで,かえって目の前の現実を相対化でき,1980年頃のパソコンブームにいち早く関心をもったそうだ※1。
時間をかけてパソコンゲームをプレイし,ストーリーを進めていくことは継続性が必要で,機械そのものよりもストーリーを組み立てた作家との対話のような性格が強い。それこそ冒険小説やSFを読んでいくような感覚に近くて――今となっては当たり前だが,当時そのことに気づいていた知識人は稀だったのだ。
そんなわけで,紀田順一郎氏は「火吹山の魔法使い」の評判をいち早く察知しており,社会思想社編集部の田中矗人(ひとし)氏から日本語版の刊行について相談を受けたとき,「面白いですよ」と太鼓判を押した※2。ただし売れるかどうかは,まるで自信がなかったようである。
紀田氏は「火吹山の魔法使い」日本語版の解説を手掛けているが,引き受けながらも不安は拭えなかったようで,解説執筆のために校正刷りを持ち歩きながら,「こんなモノをやろうとする人間が日本にどれくらいいるんだろう」などと話していたという※3。
とくに懸念されたのが,それまでの読書家が「ゲームだから」と軽く見る風潮だ。なにせ英米とは違い,当時の日本はD&Dすら翻訳されていなかったのだから。
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一方で,古代ギリシアのミノタウロス伝説からゴシック文学の伝統についても詳述し,「迷宮」が人々を魅了していたことに触れていくことで,なぜいまゲームとして西洋の迷宮感覚が復活したのか,そこにこそ温故知新としての面白さがあると訴えかけたのである。
ただ文学や思想の話ばかりでは,「若者」にはなかなか関心を持ってもらえない。そこで紀田氏は,D&Dや安田 均氏の仕事を紹介したうえで,「架空世界の地理風俗、歴史などを創造してしまうほど、凝ったものが出現」したことに,素直に驚いてみせるのである。
パソコンへの応用についても基本は押さえており,書籍のゲームブックと並行して発展してきたデジタルゲームとして,インフォコムのテキストアドベンチャー「ゾーク」(1980年)について言及している。
それだけではない。コンピュータRPGの文脈では,「アップル荘の下で」(1978年)や,「ウィザードリィ」「ウルティマ」(ともに1981年)についても触れている。先駆的な「アップル荘の下で」に言及するあたり,紀田氏のパソコンへの関心度が並々ならぬものであることが,よく伝わるのではないだろうか。
あまり知られていないが,紀田氏は「火吹山の魔法使い」日本語版と同年の1984年に,「オンラインの黄昏 パソコン・ミステリ」という小説を発表したほど,パソコン狂だったのである。案の定,紀田氏の心配はよそに,「火吹山の魔法使い」はあれよあれよとベストセラー街道を邁進することになる。
※1:紀田順一郎「ゲームの進化論5 遊びが労働の成果奪い取る ハッカーどうする」,「朝日新聞」1987年3月30日夕刊。
※2:浅羽莢子「ゲームブック翻訳顛末記」「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。
※3:鏡明×山本陽一「ゲームブックのファンタジー」,「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。
5 安田 均氏とRPGの出逢い,翻訳紹介の黎明期
安田 均氏は,「ファイティング・ファンタジー」のみならず,RPGカルチャーそのものを本格的に日本に紹介した第一人者である。
幼少期からSFに親しみ,1970年には京都大学にSF研究会や幻想文学研究会を立ち上げたばかりか,それを拡大させた幻想文学研究会を関西で運営。それが「幻想と怪奇」を編集していた荒俣 宏氏の目に留まり,「クラシックをやりなさい」とのアドバイスを受けて,2年がかりでクラーク・アシュトン・スミスの「魔術師の帝国」(創土社,1974年刊)を編訳することとなった。
スミスはRPG的な想像力を培った代表的な作家であり,実際,D&Dのモジュール(=アドベンチャー・シナリオ)である「アンバー家の館」(1981年)のネタ元になっているほどだから,このとき,すでに運命は決まっていたのかもしれない。
1974年にオイル・ショックのアオリを受けて「幻想と怪奇」が休刊になってしまったことから,翻訳家の伊藤典夫・浅倉久志両名の推挽を受け,ケイト・ウィルヘルム「1マイルもある宇宙船」の翻訳を「SFマガジン」1975年3月号(早川書房)に掲載。以降,先鋭的なSFの翻訳紹介で頭角を現していく。
そして1975年からは,「SFマガジン」の連載「SFスキャナー」を担当する。これは伊藤典夫氏らが最新のSF作品をいち早く論じ,熱い注目を集めていた連載だが,ここで安田氏はクリストファー・プリースト氏やイアン・ワトスン氏など,“ポスト・ニューウェーブ”と呼ばれた,ほかの論客ではなかなか扱いきれない最前衛の作家たちを積極的に紹介した。
転機となったのは1978年,それまで勤務していた商社を辞し,専業になってからのこと。海外のSF雑誌にRPGの翻訳が載り始めて関心を持ち,1979年にD&DとSF-RPG「トラベラー」を取り寄せたのだ。
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その後,安田氏は1981年に初めて世界SF大会へ参加し,発売されたばかりの「クトゥルフの呼び声」や「ストームブリンガー」といった新機軸のRPGに触れて,「これからはゲームの時代だ」と開眼する。
同年には,Apple II版の「ウルティマ」や「ウィザードリィ」に出会い,パソコンゲームにも開眼。パソコン雑誌「ログイン」(アスキー)や,「SFマガジン」「SFアドベンチャー」(徳間書店)「奇想天外」(奇想天外社)といった小説誌で,怒涛のごとくRPGに触れていくことになる。
ゲームブック的には,のちに「ログイン」の編集長となる河野真太郎氏からの依頼を受けて,同誌1983年11月号の特集「ロールプレイングゲームの素晴らしき世界」で,大半の原稿を執筆している。
「火吹山の魔法使い」の紀田順一郎氏による解説で言及されているのはこの号で,まさしく「バカ売れ」し,「ログイン」がパソコン雑誌からゲーム雑誌へ舵を着るきっかけとなった※1。もちろんT&Tソロアドベンチャーや,「火吹山の魔法使い」についても紹介されている。
他方,パソコンを新しい文学・文化として見る動きもあった。老舗文芸誌「早稲田文学」(早稲田文出版会)の編集チーフだった山本陽一氏が,同誌の編集部を辞して1984年5月に「遊撃手」(ラポート社)を立ち上げた。
評論家の鏡明氏,翻訳家の青山 南氏,フランス文学者・作家の松浦寿輝氏など,およそ今日では考えられないような面々がゲームについて熱く語っているのが特徴的な雑誌で,「ウィザードリィ」のようなRPGのみならず,「ゾーク」のようなテキストアドベンチャーも本格的に紹介されていた。
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「遊撃手」は9号目にあたる1985年2・3月合併号で休刊になったものの,システムソフトをスポンサーにした精神的後継誌「Bug News」(ビー・エヌ・エヌ)として復活。単行本「電子小説批評序説」(ビー・エヌ・エヌ,1987年)にまとめられる畑中佳樹氏によるテキストアドベンチャー批評は,近年,デジタルゲーム研究者の吉田 寛氏らによって再評価の兆しがある。
「ファイティング・ファンタジー」的には,1982年の日本SF大会で,のちにゲームブック雑誌「ウォーロック」を共に立ち上げる多摩 豊氏と,安田 均氏が出逢ったのも大きい。それまで安田氏は,京大SF研の後輩であった佐脇洋平氏と交流があり,共にSF-RPG「トラベラー」(ホビージャパン,日本語版1984年)の翻訳・紹介を手掛けたり,制作チームTTGとの共作という形で「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「デュマレスト・サーガ」(ともに創元推理文庫,1985/86年)のゲームブックを書いたりしていた。
また1983年には,SFファングループ「星群の会」絡みで,共にグループSNEを立ち上げることとなる水野 良氏・山本 弘氏の双方ともゲームを介した交流を深めていたのである※2。
――安田氏の業績は多岐に亘るため,語り始めるとキリが無くなってしまうが,ひとまず,このあたりでやめておこう。
※1:安田 均「日本現代卓上遊戯史紀聞[1] 安田均」(聞き手:岡和田晃・沢田大樹・山本拓,ニューゲームズオーダー,2018年。
※2:「星群祭のあゆみ」,星群の会ホームページ,2025年12月閲覧。
安田 均氏の業績については,※1に加え以下も参考にした。
- 安田 均「安田均のゲーム紀行 1950-2020」,新紀元社,2020年。
6 浅羽莢子氏と名訳の背景
「火吹山の魔法使い」といえば,最初に翻訳・紹介を手掛けた浅羽莢子氏の名訳が切っても切り離せない。RPG用語が定着しておらず,また「外来語が氾濫」している時代に,「ドラゴン」や「スタミナ・スコア」と単に音訳するのではなく,「竜」や「体力点」と,しつこいまでに和訳をすることにこだわっていた※1。
その真価は「モンスター事典」(社会思想社,日本語版1986年10月1日年)でも確認できる。Demonspawnを「魑魅魍魎」,Flying Guardianを「聖護鳥」,Imitatorを「やつし」,Life-Stealerを「殺生怪」,Wightを「墓鬼」と呼ぶなど,雰囲気満点である。
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試行錯誤を重ねながらも,浅羽莢子氏は1984年6月に依頼を受けてから,さほど延び延びにすることなく,「火吹山の魔法使い」を訳了している。
それもそのはず。氏は調子が乗ってくれば,英文を読む速度と同じスピードで翻訳を行える,“超”がつくほど優秀な翻訳者だった※2。早くからパソコンを導入し,お気に入りのNECのM型キーボードをずっと使っていて,「これがいちばん早いのよ」と言っていたとのことである※3。
ただ,それは氏のたゆまぬ努力あっての賜物なのは言うまでもない。氏は「ミステリマガジン」(早川書房)1978年10月号のジェイムズ・ヤッフェ「袋小路」で翻訳家としてデビューを飾り,1980年にはL・スプレイグ・ディ・キャンプ&フレッチャー・プラット「妖精の王国」(ハヤカワFT文庫)を上梓した。そればかりではなく,1981年にイギリス・ウォーリック大学大学院へファンタジーを研究するために1年留学,留学中も訳書を刊行しているのだから只者ではない。
そんな浅羽氏は留学中,ウォーリック大学のSF&ファンタジー同好会に参加している。ここでは週1回の例会後に自由参加で「アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以下,AD&D,1977年)をプレイしていた。
興味本位で参加してみたところ魅力に取り憑かれ,「その後は一年間の滞在中、まず一回も欠かさなかった」くらい熱中したのだとか※4。持ちキャラは最初だけハーフリング(トールキンのホビットのような種族)の盗賊で,その後は人間の「道士」(クレリック)をプレイしたが,戒律が厳しいことから変更することにし,最終的には人間の戦士を長くプレイした。
浅羽氏のAD&Dへの傾倒ぶりは,プレイの参考にするため,リビングストン氏が編集長を務めていた,AD&Dのサポート誌「ホワイト・ドワーフ」を読んでいたことからも推し量れる。
もっとも,帰国後は周囲に仲間を見つけられず,RPGをプレイすることはできなかったというから,ゲームそのものにハマったというよりは,プレイグループの人間関係によって長く遊び続けられたというところが大きかったのかもしれない。
それでも1983年初夏に再びイギリスへ旅行に出かけたところ,書店でスティーブ・ジャクソン氏の「ソーサリー」第1巻を見つけ,購入してプレイするくらいには思い入れがあった。そうした経緯があり,「火吹山の魔法使い」の訳を引き受けることになったのである。
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そののち,浅羽氏は社会思想社から出たFFシリーズにおいて,「バルサスの要塞」(1985年4月25日),「さまよえる宇宙船」(1985年9月20日),「雪の魔女の洞窟」(1986年4月25日),「恐怖の神殿」(1987年1月30日)の訳をそれぞれ手掛けている。さらにはゲームブックブームと前後して,アン・マキャフリィ,スーザン・クーパー,タニス・リー,シャーリーン・マクラムらの小説も多数,翻訳している。
ゲームブックブームの立役者ながら,爛熟期たる1987年を最後にいったんゲームブックの翻訳から離れたのには,「嫌いじゃないが、そればっかりで有名になっても仕方がないのではないか」という違和感が手伝っていた面があるようだ※5。
実際,翌1988年の「死者の書」(創元推理文庫)に始まるジョナサン・キャロル氏のダークファンタジー小説シリーズの翻訳は,浅羽氏の新たな”顔”としてプロフィールでしばしば言及されたし,ブームの渦中から手掛け始めていたマーヴィン・ピークの「ゴーメンガースト」シリーズ(創元推理文庫)は,ゴシック文学を再生させる勢いの大伽藍のごとき壮麗な作品で,その翻訳は自他ともに認める代表的な仕事として筆頭に挙げられるものだった※6。
翻訳者は自らの職分に忠実でありたいとの思いからか,浅羽氏は自らをあまり語ることはなかった。後年,田舎の旧家を舞台に小説を書こうと詳細な系図や設定を準備していたというが,出版されるには至らなかった※7。2006年に癌で夭折してしまったからである……。
浅羽氏は亡くなる前年まで,創土社から再刊されたスティーブ・ジャクソン氏のゲームブック「ソーサリー」4部作(2003〜2005年)の新訳を手掛けている。
これは創土社の編集者・酒井武史氏をはじめとする,1980年代ゲームブックブームで育った読者の熱意にほだされた,ということなのだろう。付かず離れずの距離感でいながら,読者の期待には応えたい気持ち,ゲームへの秘めた思いは強かったのかもしれない。
※1:浅羽莢子「『火吹山』のころ」,「ウォーロック」35号(1989年11月号),社会思想社。
※2:扶桑社で浅羽莢子訳の「火吹山の魔法使い」と「バルサスの要塞」を担当した冨田健太郎氏の証言による。
※3:同前。
※4:浅羽莢子「ゲームブック翻訳顛末記」,「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。
※5:浅羽莢子氏が社会思想社でゲームブックを訳していた当時を知る関係者の証言に基づく。
※6:日本推理作家協会の会員名簿より。
※7:冨田健太郎氏の証言による。
- 関連タイトル:
ファイティング・ファンタジー・コレクション
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