インタビュー
タイトーサウンドかく発祥せり。「スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション」発売を記念し亀井道行氏&今村善雄氏にインタビュー
ポスト「スペースインベーダー」サウンドの模索
「スペースインベーダー」が下火になったころには,同じ基板を使って(ROM交換で)新しいゲームをたくさん作ろうとするんですけど,音が固定されているので,オーディオボードはいちいち新しいものを作らないといけなくなるわけです。でも,毎回部品を直付けしていたら大変なので,音の回路をカートリッジ化したりして。憶えてる?
今村氏:
あったね(笑)。ベーク基板で8枚くらい挿せるようにしたやつ。
亀井氏:
爆発音とか車のエキゾースト音とか,1音で1カートリッジ。流用できるものは流用できるようにして,あとは1つか2つ新しい音を作ればいいっていう形にしていたんです。このやり方で何本かやったんですけど,そうこうするうちに,音もCPUを使ってプログラマブルにしたほうが良いだろうと考えるようになってきたんです。誰に言われたわけでもなくて,もうそういう時代だなと。
ゲーム開発のほうもZ80 CPUが主流になってきていて,時流に合った新しいボードを設計する必要が出てきていました。それで「スペースクルーザー」(同時期に開発された「スペースシーカー」とともに,タイトーSJシステム基板の第1弾となったタイトル)を作るときに,ちょうどPSG(AY-3-8910)が市販され始めていたので,それを使うことにしたんです。
4Gamer:
SJシステムはPSGを3個も搭載していて,時代を考えると,かなり豪勢な音源設計になっていました。
今村氏:
厳密には4個だね。メイン基板にもひとつ載ってる。けど,それはなぜかDIPスイッチ用のポートとしてしか使われていなくて,音は出していない。何をしようとしていたんだろう。
亀井氏:
それはちょっと記憶にないなあ。まあそれはともかく,PSGは普通に使うと3音しか同時に出せませんよね。でも「スペースインベーダー」は7つの音をいっぺんに出していたわけですよ。それくらいの音数がないと,迫力が出ない。もちろんプログラムで割り込みをかければ,PSG1個でも取っ替え引っ替えいろいろな音を鳴らすことはできますけど,音が途中で消えたりすると,遊んでいる側のリズムが狂っちゃいますよね。敵に当たったのに(チャンネルの空きがなくて)音が出なかったりするのも興醒めです。だから,とにかく出力はいっぱいないといけないと考えて,「スペースクルーザー」ではPSGを3個使いました。9音あれば,バックグラウンドでメロディを流したりもできます。
4Gamer:
できる限りBGMに多くチャンネルを割こうとしていた後年のゲームサウンドとは,だいぶ発想が違いますね。PSGサウンドの開発環境はどのようなものでしたか?
亀井氏:
ゲーム基板を手作りのパソコンに仕立てて,それを使っていました。メカ屋さんが設計して,スイッチ剥き出しのキーボードを手製の白いケースに入れてくれたりしてね。あれはなかなか楽しかった(笑)。
4Gamer:
要は社内でマイコン(マイクロコンピュータ)を自作していたと。
亀井氏:
それを使ってプログラムを少しずつ覚えていって,「ゲームのCPUから命令が来ると,サウンドのCPUはこういう風に音を鳴らす」という形で,サウンドボードの制御をできるようにして。(DACによる)音声サンプリングの実験とかも,それでやっていました。8bitなので,そんなに綺麗な音では録れないわけですけど。画面に波形を表示したり,ピッチの調整ができるような機能も付けていました。まあ,これは実際に音を聴いたほうが早いので,そんなに役立たなかったと思います。こういった仕組みが整ってくると,今ちゃんみたいに音楽的な才能を持った人が活躍できるようになってくるので,そのあたりから僕は別の仕事に移っていった感じですね。
タイトーのサウンド開発部署と台湾の意外な関係
石川氏:
タイトーにサウンド開発部署ができた経緯というのが,実はすごく曖昧にしか分かっていなくて,とても気になっているんです。今村さんは音楽の知識があるとはいえ,ずっと技術屋でやってきたわけですよね。そこからサウンド開発部署を任されるようになった経緯は,どういったものだったんですか?
今村氏:
ええと,その話をするには,まず台湾の話からしないといけないな。
4Gamer&ZUNTATA:
台湾!?
亀井氏:
海外にも「スペースインベーダー」を出荷していたんです。
今村氏:
ただ台湾はちょっと特殊で,当時は日本製品の輸入が禁止されていたので,現地の工場で製造してもらう必要があったんです。それで我々も(技術指導で)台湾に行ったりしていました。
亀井氏:
先に今ちゃんが行って,その次に僕が。向こうに着くなり,現地の技術者が,「亀井さん,これ修理して」って「スペースインベーダー」の基板を持ってきたのを覚えていますよ。インベーダーの眼が表示されないって言うので,調べてみたらデータ出力が一か所ショートしていた。そこを修理してみせたら,「実はこれ,亀井さんにどれくらい技術があるのか知りたくて,テストのつもりでお見せしました。今村さんは『直らない』って置いていったんですよ」なんて言うんですよ。
今村氏:
それは覚えてないなあ(笑)。
亀井氏:
おかげで「すごい技術者さんだ」って認識してもらえて,ずいぶん良くしてもらえました(笑)。今回久々に今ちゃんに会うっていうので,ふとそんな話を思い出したんです。
今村氏:
亀ちゃんは台湾に行ったのその時だけだったと思うけど,僕はその後にも毎年,計3回行っているんですよ。1年目は4か月,2年目は3か月,3年目は2か月と。2年目は台中のデパートにタイトーのゲームコーナーを作るっていうことで行って,その翌年にもなんだかんだあって,行ったり来たりしていた。その間に亀ちゃんが,さっき話にあった8910(PSG)を3個使ったハードウェアを構築していたわけなんだけど,私は浦島太郎状態になっちゃっていて,そういうことを全然知らなくて。帰ってきたら亀ちゃんが「一応3個使っといたから,もう大丈夫でしょ。後は任せた」みたいなことを言うんですよ(笑)。
亀井氏:
さっきも言ったように,これはもう音楽的センスのある人じゃないと使いこなせないから,自分でやる気は無かったんです。それに,このころは別の仕事も入ってきていて。M68705っていう従来とは別のCPUを使って,基板の海賊版コピー対策をやっていました。
「ルナレスキュー」&「バルーンボンバー」
今村氏:
私のほうは台湾と日本を行ったり来たりするなかで,生産技術だけでなく,少し開発寄りな,設計の仕事もやるようになっていました。サウンドに8910を使ってどうこうするという話は,その当時は全然知らされていなかったんですが,それとは別のところで,五線譜を読んだり書いたりできる人間が(西角さんを除けば)私しかいなかったので,「音楽を鳴らしたいんだけど,なんとかならないか」という話は来ていたんですね。要はインベーダー基板と大差ないアナログのサウンド回路で,ポートの周波数を変えるプログラムを書いて単音のメロディを演奏させるわけです。
4Gamer:
インベーダーの足音のようなものだけでなく,ちゃんとしたBGMを載せようという動きがいよいよ出てきたわけですね。
今村氏:
台湾から日本に帰って来たタイミングで,西角さんのギターを借りてちょこちょこっと弾きながら,それ用の曲を五線譜に書き留めていました。言ってみれば片手間みたいな感じですけど,そうして最初にできたのが「ルナレスキュー」(1979年11月リリース)の,コーヒーブレイク時の音楽。
4Gamer:
当時書いた楽譜は残っていないのでしょうか?
今村氏:
無い無い(笑)。作って渡して,それで終わりだから。次にやった「バルーンボンバー」(1980年3月)もそう。あれも譜面を書いて開発に渡してそれきり。その後どうなったかすら知らない(笑)。
石川氏:
ええっ。「バルーンボンバー」って今村さんなんですか。
4Gamer:
「バルーンボンバー」は常時BGMが流れた史上初のゲームです。その意味で歴史に残る一作ですが,市場に出回っている基板にはBGMが付いているものと付いていないものがありますね。途中から付くようになったのでしょうか。
今村氏:
いえ,最初から付いていましたよ。
4Gamer:
あのBGMは童謡「グッドバイ」(※)によく似ていますが,意識しておられましたか?
※1934年発表。作曲・河村光陽,作詞・佐藤義美。
今村氏:
それは全然知りません。あの風船が揺れるイメージをそのまま音にしたんですよ。
土屋氏:
いやあ,そんなところからゲーム音楽を作っていた時代があったんですね。クリエイティビティがすごい。感動しかない。
「第5研究室」の誕生
石川氏:
そこからサウンド開発が部署という形になっていく経緯というのは?
今村氏:
その辺のことは以前,ZUNTATA25周年記念の時に寄稿した「私とズンタタ」という文章にもざっと書いたんだけど,台湾から戻ってきて3年ぶりに落ち着いたところで,上司から「サウンドの部署をやらないか」って声がかかったんです。全てはそこからですよ。
4Gamer:
ということは,1981〜1982年には「第5研究室」としてのサウンド開発がスタートしていたわけですね。
今村氏:
最初のメンバーは3人で,私がマネージメントと楽曲の担当,他の2人がシステム担当と,効果音・電気回路担当。効果音・電気回路担当は,あのころまだ新人だったんじゃないかな。彼らの後に,「ワイバーンF-0」や「バブルボブル」の楽曲を後々生み出す2人が同期入社。小倉(久佳。「ダライアス」シリーズほか)は中途入社だけど,期としては彼らと同じです。
土屋氏:
このころにはもう今村さんが面接して採用するようになっていたんですか?
今村氏:
そう。最初の3人だけでやっていたのは,一年半くらいかな。それから「もっと大きくする」という話が出てきて。それまでの期間に私が音楽をやったのは,「アルペンスキー」(1981年12月リリース),「ワイルドウェスタン」(1982年4月リリース),「ジャングルキング」(1982年7月リリース),「タイムトンネル」(1982年10月リリース)。このあたりは当時の譜面帳に割と残っているね(以下,今村氏持参の直筆楽譜を見ながら)。これが「タイムトンネル」のもので,これが「ちゃっくんぽっぷ」(1984年4月リリース)……。
4Gamer&ZUNTATA:
貴重すぎる!
4Gamer:
コード譜まで書いてあるものもありますね。
今村氏:
その辺はまちまちですよ。「ちゃっくんぽっぷ」なんて走り書きだし。なかば趣味でやっているようなものもあるし。
土屋氏:
それにしても今村さんが手掛けたタイトルは,どれもメロディが印象的ですね。画面を見ただけでこういうフレーズが浮かんでくるっていうのは,今村さんの作曲能力の高さを示しているというか,普通こんな風にはできないと思うんですよ。「エレベーターアクション」(1983年6月リリース)なんて凄いですよ。ギャングが出てきて銃をバンバン撃ちまくるのに,曲がとても明るくて……。
今村氏:
ゲーム内容がそういうものであっても,キャラクターとか動きはコミカルじゃないですか。最初に画面を見たときイメージしたのは「洋物」「ギャング」「ちょいジャズっぽく」「面白く」だったかな。
4Gamer:
たとえば既存のギャング映画の音楽とかにヒントを得たりは?
今村氏:
そういうことは何も。私自身(楽器の)プレイヤーとして音楽歴は長いので,いろいろな音楽をたくさん聴いてきてはいたけど,作曲するときに何かの曲を意識するっていうことはなくて,ただ感じたままに作っているだけでした。
土屋氏:
パッと浮かぶものなんですか?
今村氏:
いや,やっぱり西角さんのギターを弾きながらあれこれやって,だんだん曲が固まってきたらそれを譜面に起こして……いや,起こさないものがほとんどだったな(笑)。「ジャングルキング」なんて一番気に入っていたんだけど,譜面が残ってないってことは,たぶん走り書きで終わっちゃったんだろうね。ところで,この時期のゲームで忘れちゃいけないのが「バーディキング」(1982年6月リリース)。テーマ曲を作曲したのは安田 伸……って分かる? クレイジーキャッツの。
4Gamer&ZUNTATA:
ええっ!
石川氏:
それはどういう経緯で?
今村氏:
営業がらみだと思うんだよね。あるとき「安田さんがゴルフ好きで,ゴルフゲームの音に興味あるみたい」っていうことで来社されて,サウンドの部屋まで来てくださって。「こんな曲でどうですか?」っていただいた譜面を,私がPSGに落としたの。
亀井氏:
すごく気軽にいらっしゃっていましたよ。
4Gamer:
ゲーム音楽における有名作曲家の起用は1985年ごろから(※)だと思われていたので,ゲーム音楽の歴史がひっくり返りますね。
※一例としては,セガ・エンタープライゼス(当時)が「テディボーイ・ブルース」(アーケード,1985年5月リリース)で石野陽子さんの同名曲とタイアップ,エニックス(当時)が「ウイングマン2 -キータクラーの復活-」(PC-8801 / PC-9801 / X1 / FM-7 / MSX,1986年4月リリース)の楽曲にすぎやまこういち氏を起用。そのほか,「ログイン」1985年10月号にて加瀬邦彦氏(元ザ・ワイルドワンズ)が「ファミコン音楽を制作する」と表明(具体的な作品は不明)など。
今村氏の音楽的バックグラウンドとは
4Gamer:
ところで今村さんは専門的な音楽教育など受けておられたのでしょうか?
今村氏:
いや,そういうのは全然ないですね。姉がビートルズのファンだったことから音楽を意識するようになって,中学に入ってギターを始めました。その頃はグループサウンズとフォークが全盛だったけど,私はどちらかというとフォークのほうに。高校に入るとすぐにブラスバンドでサックスを始めるんですが,ここはどちらかというとクラシック寄りで,先輩に誘われて横須賀交響楽団でも遊びがてらやるようになって。でもサックスの出番があまりないので打楽器をやりはじめて……。ずっとそういう流れでやってきたんですよ。オケでの打楽器は今もずっとやっていますけど。
土屋氏:
なるほど! 和音楽器,メロディ楽器,リズム楽器と一通り経験したから,すべてが糧になってトータルで音楽を作れるようになったわけですね。それはすごく重要なファクターですよ。どれか1つだけだったら,あの音楽になっていなかったと思います。
今村氏:
かっこよく言ってくれるけど,全然何も考えてなかったよ(笑)。意識としては,自分はあくまでプレイヤーであって,コンポーザーではなかった。そっちの経験はひとつもなかったから。ただ「読める」というだけでやらされて,目の前にある開発環境で即座にできるものを,とりあえずやってみた。それだけですよ。
亀井氏:
僕から見ても今ちゃんは確かに凄いんだけど,当時の感覚としては当たり前のことをやっているだけというか,今ちゃんがやらないと誰もやらないから,やらざるを得ないっていうところですよね。「すごいことをやらなきゃ」っていうプレッシャーを感じていたわけじゃないと思いますよ。
今村氏:
上からは「やれ」って言われるだけで,別に仕様書があるわけでもないし,具体的にどうしろっていう指示が来ていたわけでもないからね。
4Gamer:
完全に自主性に委ねられていたのですね。そういうところは,現代のゲームサウンド制作とはだいぶ違うところだろうと思います。現代だとサウンド部署があるのは当たり前ですが,当時の社内におけるサウンドの位置づけは,どのような感じだったのでしょうか。
今村氏:
最初はひどい扱いをする人もいましたよ。とある上司に「ゲームに音楽なんかいらない」と,はっきり言われたこともありました。「開発内部でそういうこと言うか?」って思いましたけど。
亀井氏:
とはいえ,やりたいことはやれてたよね。
今村氏:
まあね。逆に音楽に合わせてくれる人もいたしね。「ちゃっくんぽっぷ」のエンディングとか,プログラマーが「何かハッピーな曲が欲しい」って言うので「結婚行進曲」のアレンジにしたら,彼はその節に合わせて動きを付けてくれたんです。
MSM5232採用の経緯
4Gamer:
SJシステムもそろそろ終わりかなという頃に,沖電気の音源チップ(MSM5232)が使われるようになりました。ゲームでいえば「ザ・運動会」「ビクトリアスナイン」(ともに1984年5月リリース)から使われ始めたものですが,どういった経緯であれを使うことになったのでしょうか。
今村氏:
まず8910の終わりが見えていたっていうのがありました。いろいろと使い方を工夫してきたけど,どうしたって出来ることは限られるから,何か次のものが欲しい,何かないかっていう気持ちはずっとあった。そういうところに沖からサンプルの持ち込みがあって,即断で「使おう」と決めたんです。音色的にはFM音源に比べれば全然だけど,それでも8910よりは多少幅があったし,同時に8音出せるから価格的にも8910を複数使うと考えれば許容できるしで,誰も移行に反対しませんでした。
今村氏:
「音楽的に聴かせよう」っていうものじゃなければ,まだ8910でも全然良かった。でも「聴かせよう」っていうのであれば,音色が豊かじゃないとだんだん飽きられてしまう。そこに限界があったんだよね。私は音楽的な要素をいちばん重視したいと思っていたし,実際そこの重要性は大きくなってきていたから。
4Gamer:
そのころは小倉さんなどの「音楽家として」入社してきた人たちがいたわけですから,なおさらですよね。
今村氏:
そうそう。最初に彼らのうちの一人に与えた仕事は,まさに「8910で作った音楽データを沖のチップ用にオートで置き換える変換プログラムを書く」だったんですよ。「ザ・運動会」「ビクトリアスナイン」あたりの音楽は,たしか8910で先に作ってあったはずで,それを手作業で打ち直すのが大変なので,変換プログラムを作らせた。
石川氏:
そういえば「影の伝説」(1985年10月リリース)のサウンドは,沖のチップとFM音源で2バージョンあるじゃないですか。あれもそういった変換プログラムを用いて?
今村氏:
いや,あれはちゃんと別々に書いていた……と思う。
FM音源にまつわる紆余曲折
4Gamer:
沖のチップが使われた期間はあまり長くなくて,すぐにFM音源の時代が到来します。
今村氏:
FM音源にはいち早く注目していました。ヤマハのMSXパソコン(1983年発売の「CX5」)が出た当時,それに使われていた8ポートのFM音源チップ(YM2151)をすぐにでも使いたいと思って,直接ヤマハに交渉しに行ったんですよ。タイトーの代理店の人と一緒にね。ヤマハの所長さんは結構いい返事をしてくれたので,いけるかなと思ったんですが,ヤマハの営業のほうからダメという声が出て。いくらタイトーといえども,アーケードとコンシューマじゃ捌ける数が違いすぎるので,営業的には眼中になかったみたいで。そしたら私より先に代理店の人が怒っちゃって,いやもう,いろいろと大変だったよ(笑)。
4Gamer:
確かに,生産数が100万の単位になるコンシューマハードは,アーケードゲームの出荷数を容易に上回ります。
今村氏:
まあ,そんなことがありつつも,同時期にヤマハは8910の上位互換チップ(YM2149, SSG)も作っていたじゃないですか。従来品と比較してみたら温度特性がずっと良かったので,タイトーではあれを導入したんですよ。それでYM2149の使用が増えてきたら,ヤマハもタイトーを無視できないと思うようになったんじゃないかな。YM2203(SSGにFM音源3声を加えたチップ。通称OPN)を作り始めて,今度は向こうから「使ってください」って持ってきた。正直「このやろう……」とは思ったよ(笑)。けど,経緯はどうあれ,少しでも早くいい音にしたいと思っていたので,すぐにそれを使ったんだよね。
4Gamer:
タイトー初のYM2203採用作品は「サイクルマー坊」(1984年12月リリース)で,これは日本で最初にFM音源を使用したゲームということになっています。
今村氏・亀井氏:
うーん,知らない。
4Gamer:
外部からの持ち込み作品だという説がありますね。
今村氏:
タイトーの開発したタイトルじゃないのは確かだね。持ち込み作品って,我々とは関係なく営業が各社に作らせていて,我々のところに突然「こういう基板を作ります」と持ってくるだけなので,詳しいことは分からないんです。
4Gamer:
自社開発で最初のFM音源となると,やはり「影の伝説」になるのですね。YM2203の次に主力音源となったYM2610(通称OPNB)については,どうでしょうか。
今村氏:
2610のことはよく覚えています。2203で6音出せるようになったとはいえ,どんどん欲が出てきて,「それでも少ない」と感じるようになってきたんですね。それで「こういうものが欲しい」ってスペックをまとめて,ヤマハに要望を持って行ったんですよ。その頃にはもうタイトーがかなりの数の2203を使ったので,ヤマハも割とすんなり耳を傾けてくれました。
石川氏:
ヤマハとタイトーの共同開発だったとか。
今村氏:
共同開発というよりは,こちらの希望にヤマハが乗るかどうか,それだけの話でした。タイトーが開発資金を供出したりしたわけじゃなくて,「こういうものがあれば買います」という。
4Gamer:
だから後年になるとタイトー以外での使用も増えてくるのですね。
石川氏:
2610は本来FM音源パートが6チャンネル出る仕様だったものが,歩留まりが悪くて4チャンネルに減ってしまったという話もありますね。その後だいぶ経ってからYM2610Bが出て,ちゃんと6チャンネル出せるようになったと。
今村氏:
よく知ってるじゃない(笑)。その通りです。こちらから要望を出したのは確かに6チャンネルだった。4チャンネルになったって言われたときは,しょうがないなあ,これは音楽と効果音を2:2か3:1で使うかしかないよなあ,と思いました。でも,それ以外のところは要望どおりになっていたし,その頃にはSEDも確立していたからね。そこから先はミュージシャンに任せようと。
タイトーサウンドの秘密兵器「SED」
4Gamer:
今,お話に出てきた「SED」とは何でしょうか。
石川氏:
1990年代初頭まで使われていた,タイトー内製のサウンドエディタです。当時はアーケードゲーム業界最高峰と言われていて。これほど音楽を打ち込みやすいエディタは他社にも無かったと言われているくらいのものなんですよ。それまでは16進数とかで入力しなければいけなかった音楽データを,より楽譜に近い形で書くことができた,本当に画期的なツールでした。ちょっとMML(Music Macro Language)に似ているところもありましたね。
今村氏:
SEDの存在は,タイトー初期のサウンド開発を語る上で欠かせないものです。これがサウンドのクオリティに深く関わっていたことは,絶対に忘れちゃいけない。サウンドの部署を3人で始めたとき,一番最初にやったのは,第5研究室のシステム担当者にSEDを作ってもらうことでした。より音楽的なサウンドエディタを作りたいという提案は,彼自身からもありましたしね。当時すでにMIDIはあったけど,そこからデータを変換するノウハウがまだなかったし,やるのに手間がかかりすぎるだろうとも思ったから,独自のサウンド開発環境を組むことにしたんです。SEDを作り上げることは,サウンドチーム設立当時のひとつの目標になりました。
4Gamer:
それ以前のサウンド開発環境は,どういうものだったのでしょうか。
今村氏:
「ブルーシャーク」を開発した人が構築したゲーム開発環境があったんですが,主にそれを使っていましたね。これはゲームの開発機材を一部改変してサウンドエディタの機能を持たせたもので,確か「エレベーターアクション」あたりは,まだそれを使っていたはずです。これは音符の情報を(プログラムデータを書くのと同じように)縦方向に配置していかないといけなくて,私たちみたいな技術屋であれば苦じゃないというか,まあしょうがないなと割り切って使えるものでしたけど,いずれ技術屋でない音楽の専門家が入ってきたら,これだと手に余るのは分かりきっていた。だから楽譜と同じように,音符を横方向に置いていけるものを作らせたんです。実際,小倉とかはずいぶん苦労したと思いますよ。彼が入ってきたときには,まだシステムが確立しきっていなかったので。
4Gamer:
データの保存方法はどうだったのでしょうか?
今村氏:
当初はやはり磁気テープでした。その開発環境を使う以上,それしか選択肢がなかったということもあります。SEDはそういうところも変えていかなきゃ,と考えていました。結果として新しい開発環境はごくシンプルなものになりましたよ。当時はPC-9801の全盛期だったけど,そのスロットに専用ボードを入れるだけで使えたんです。処理速度も特別に必要ではかったから,一番安い機種でも構わなかった。そういう風にしたおかげで,信頼性も高くなりました。以前の開発環境は基板が剥き出しだったこともあって,しょっちゅう接触不良とかを起こしていたんですよ(笑)。
4Gamer:
SEDはどの作品から使われるようになったのでしょうか。
今村氏:
うーん,どれだっけなあ。デバッガだから,具体的にどの作品というのは……。少なくとも「ダライアス」ではもう使っていたと思うけど。
4Gamer:
お話を聞く限りだと,SEDのインターフェイスは後年のトラッカー(※)を水平型にしたもの,あるいは今でいうところのピアノロールのアイデアを先取りしたものともいえそうですね。音程の情報はABCD……といったテキストで記すものの,その持続時間(音長)は横軸の長さによって決まる。そしてその時間長はビジュアル的に可視化されているといったあたりが。
※縦方向に時間軸を取り,文字や数値で表した音のデータを配置していくツール。概念的にはSEDに似ている。
石川氏:
まさにそうですね。それをトラック単位で管理できるという。僕はSEDに触れたことのある最後に近い世代ですが,入社したときから当たり前に触れていたので,これがゲーム開発では普通だと思っていたんです。後になって全然普通じゃなかったと知って驚きました。他社ではずっと縦割の入力環境を使っていたそうなので,画期的だったんだなと。
今村氏:
本当に自由度の高い環境だったんですよ。それはもう,我々には絶対に必要なものだった。
4Gamer:
ちなみに石川さんはどういったお仕事でSEDを使われたのですか。
石川氏:
さすがに多くはなくて,2機種くらいですね。ミモ(タイトーにおけるメダルゲームの通称)と,あと「メタルブラック」(1991年11月リリース)の効果音でも一部使っていました。
一風変わった仕事あれこれ
今村氏:
SEDの開発が進んで,新しいメンバーが入ってきて,新しい音源チップも使えるようになって……というころに,もうひとつ新しい仕事が舞い込んできました。楽器演奏ロボットの開発です。
石川氏:
ギター演奏ロボットの「弦遊」(1989年リリース)ですか?
今村氏:
それもだけど,その前に作ったやつがあって(※社史によると「アンサンブル・ド・ロボット」。1984年開発)。これはさすがに楽器のノウハウがある人間じゃないとできないけど,当時サウンドのメンバーで多くの楽器に親しんでいたのが私しかいなかったので,私がやることになったんです。ロボットの楽曲は開発の長だった人の知り合いを外から呼んできてお願いしたんだけど,デモ演奏のリコーダーは私が吹いた(笑)。そんな感じでロボットに注力することになって,ゲームのサウンドに関しては監督はするけど,基本的には皆に任せる形になっていきました。
4Gamer:
それがきっかけとなって,分業体制が確立されていくのですね。
今村氏:
小倉達が入って,SEDも使えるようになったので,音楽的なところはもう任せられる状況でしたからね。音楽に関して私のほうから口酸っぱく注意していたのは「たとえ打ち込みであっても活きた音にしなさい」ということだけです。日ごろから生演奏の音楽に接していたこともあって,そこだけはちゃんとできていないと意味がないと思っていました。だからPSGでも何でも,とことん突き詰めなきゃね,と。話を戻すと,「弦遊」のときはゴダイゴの浅野孝已さんが最初の50曲をやってくださいました。あれもけっこう大変だったんですよ。週に1〜2回は,仕事が終わってから浅野さんのご自宅にある機材部屋へ行っていました。厳選した楽曲50曲を「弦遊」の能力を最大限に活かして編曲して,MIDIデータ化していただいてたんです。
4Gamer:
浅野さんは同時期に「チェイスH.Q.」(1988年9月)など,ゲーム音楽の作曲もなさっていますね。
今村氏:
ご縁ができたのは,たしかLDゲームの「宇宙戦艦ヤマト」(1985年7月リリース)か何かをやっているときじゃないかな。そのころに紹介してもらったんですよ。
4Gamer:
LDゲームのサウンドまわりには,どのように関与されていたのでしょうか。
今村氏:
LDゲームの場合だと,東映動画に作曲や効果音のプロがいるので,基本的にはそちらへお任せしました。私は良いか悪いかを言う程度で,何かあれば相談に乗る,くらいの関わり方でした。ただ「タイムギャル」(1985年リリース)はちょっと違ったんです。あの時は小倉達と一緒に,作曲家の個人スタジオ……よくあるマンションの一室なんですけど,そこに行って演奏したんです。
4Gamer:
なぜそういった状況に?
今村氏:
もともとは完成したものをジャッジするくらいのつもりで,彼らを連れて行ったのも,いろいろな経験をさせておいたほうが良いだろうくらいの考えでした。ところが着いてみたら,まだ完成していないと。作っている最中で何か行き違いがあったらしくて,結局「手が足りない」ということで,徹夜で手伝うことになっちゃって。
4Gamer:
本当ならノータッチのはずだったのに,ハプニングで関わらざるを得なくなったわけですね(笑)。ところでアルバム「タイトー・ゲーム・ミュージック」(1987年リリース,LPレコード/カセットテープ)以降,タイトーのゲーム音楽が次々と音源化されるようになるわけですが,レコードやCDの制作にはどの程度タッチしておられたのでしょうか。
今村氏:
サイトロンなどのレーベルとのやり取りは小倉に任せていて,私はほぼイエス/ノーの判断しかしませんでした。自分自身ずっと音楽をやってきているから,ゲーム音楽のレコードやCDが必要とされる時代になってきたことも感じていていたし,それをやるのにどれくらい手間暇をかけるべきかも経験上分かるから,基本的にノーとは言わない。ただ金銭のかかりそうな話のときは,人知れず動いていましたよ。よく覚えているのはライブに関することだね。皆がやりたがっているし,させてあげたいとも思った。なら社長の首を縦に振らせるのが自分の仕事だろうと,裏でいろいろとやりました。
タイトーのサウンドクリエイターとなる資質とは
土屋氏:
このころからゲームサウンドクリエイターの希望者ってどんどん増えてくるわけですが,面接では何を重視して採用しておられたのでしょうか? タイトーのサウンドって,すごく個性的な人ばかり集まっていた気がするんですけど(笑)。
今村氏:
うん,やっぱり「変わっているかどうか」だよ(笑)。ただ,小倉は営業かどこかが「やりたがっている人がいる」って連れてきたんだけどね。その時は,将来的に手が足りなくなるのが分かりきっていたから,(「変わっているか」を基準にせずに)割とすんなり決めた感じだった。
亀井氏:
そもそもタイトーの開発って,何かしら尖った人じゃないと,採用されませんよ(笑)。
今村氏:
山田(靖子。ZUNTATAネームはYasko)も,古川(典裕。同じくなかやまらいでん)も,海野(和子。同じくKaru.)も,みんなそうだった。このあたりの世代になると,音大出身者も増えてくるじゃないですか。こちらにしてみれば「音楽を勉強してきたのに,何でゲーム音楽なんてやりたがるの?」っていう感じで,それだけでも十分変わっていると思いましたよ。
4Gamer:
今では音大出身者がゲーム音楽を志すのはごく普通のことなので,隔世の感がありますね。
今村氏:
ただ,それで採用してもゲーム音楽作りに向かない人はいて,そういう人達の多くは自分から去りました。
コンシューマ向けタイトーゲームのサウンドにまつわる謎
4Gamer:
ここまで主にアーケードゲームのサウンド開発についてお話をうかがってきましたが,初期の家庭用ゲームではどうなっていたのでしょうか。どういった方々が,どういう風に担当なさっていたのかという情報が,ほとんど残っていなくて……。
今村氏:
ええとね,担当者はいません。
4Gamer:
えっ!?
今村氏:
コンシューマは営業部まかせという認識ですね。我々はそっちがどうなっていたのか,全く知らないんです。
亀井氏:
コンシューマのゲームは最初(1980年代中盤),外注制作というか,協力会社に作ってもらっていたんですよ。その頃は任天堂が製造まで全部握っていて,「タイトーは年間5本まで」という制約があったんですが,やがてファミコンの市場が大きく拡大してきて,自社製造もやって構わないということになると,じゃあ製造はどこの部署でやるかという話になって,それが当時生産部にいた僕に回ってきたんです。
4Gamer:
社内の制作体制自体はあったのでしょうか。
亀井氏:
コンシューマゲームの制作チームは,ハードウェアとは別のところにありました。ただ「制作と製造が別々の部署っていうのはおかしいだろう」ということになり,両方を統合した新しい部署ができて,僕はそちらに引き抜かれました。最初はとても小さな部署でしたけど,その後,この部署の中に開発チームができて,コンシューマ機向けの自社開発が始まるんです。過去作品のリバイバルも必要とされるので,西角さんが開発課長になったりもして。ただ音をどうやっていたのかは……。
今村氏:
譜面を要求された覚えはあるよ。
石川氏:
移植用の譜面は確かに社内資料として残っています。ただそれを実際に作った形跡が見当たらないんです。
今村氏:
社内では作ってないね。
亀井氏:
譜面だけ渡して,あとは引き続き協力会社さんのほうでやってもらっていたんでしょうね。僕は当時もう生産専門だったので,音源の詳細は分からなかったけど,ROMの基板を見て「これならもうテープレコーダと一緒だな」なんて思った記憶があります。元データさえあれば,他の環境でもそっくりそのまま再現できる時代になったんだなと。
土屋氏:
亀井さんはそこからずっとコンシューマだったんですね。
亀井氏:
そうですね。PlayStationの時代とかも……そのころに「電車でGO!」のコントローラを作ったりしていたんだよね。
石川氏:
今村さんも後にコンシューマに行っておられますよね。僕が入社してわりとすぐにサウンドからコンシューマのほうに異動して,そちらの部署の責任者に。
今村氏:
うん,引き抜かれて。西角さんの後釜としてね。
石川氏:
だから僕は,今村さんとはZUNTATA在籍時期がほとんど被っていないんですよ。ただコンシューマの開発部長の立場から「なんだこの音は!」って怒られた記憶はあります(笑)。
Ensoniq製チップの採用事情とは
EnsoniqのPCM音源チップ導入は,時期的に考えると今村さんはもう関わっていない……ということになりますか。
今村氏:
Ensoniqの話は,カラオケ事業の話がちらつきはじめた頃に出てきたんだよね。それ用に「こういうチップがあるんですがどうでしょう」という話が来たときには,まだサウンドにいましたよ。私がOKを出したかどうかまでは覚えていないんだけど。
石川氏:
僕が入ったころは,まだ(通信カラオケを)ローランドのCM-64か何かでやろうとしていたんですよ。「他に何かないか」という話を当時のZUNTATAの責任者としていて,「Ensoniqなんて良いんじゃないですかね」って僕が提案して,ダメモトで許諾について聞きに行ってみたら意外と好感触だったっていう。そんなところから始まったものです。
今村氏:
私にとっては本当に後期も後期。話は知っている,くらいのところだね。
「スペースインベーダー」誕生前夜から,サウンドチーム結成を経て,新しい世代の人々にバトンタッチするまでのお話を駆け足でうかがってきたわけだが,そこにはっきりと示されていたのは「タイトー・サウンドは黎明期から自主性の塊だった」という事実だ。何ら強制もなければ,「こうあるべき」といったプレッシャーもほとんどなく,他社に追いつけ追い越せといった風潮もない。与えられた題材や環境から各自が「やるべきこと」を見出し,独自の発想でそれを成し遂げていく姿勢は,まさしく後年の“ZUNTATAイズム”の萌芽と見ることができる。そういう意味で「スペースインベーダー」も「ダライアス」も,そして現在のZUNTATAサウンドも,すべてが同一線上にあるのである。
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