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自分のルーツは,キャラクターを輝かせるための物語作りにあり。坂口博信氏の現在,過去,そして未来が語られた「黒川塾 四十(40)」をレポート
スクウェアへ入り
ゲームクリエイターとしての人生をスタート
坂口氏は高校時代,稼いだお金をすべて映画や本に費やしていたという。しかし,映画について語り合うと,しばしば周囲と意見が合わなかったことを覚えているそうだ。おそらく,当時から物事の見方について,独自の感覚を持っていたのだろう。
大学生になり,Apple IIのソフトが動作する互換機を自作してプログラミングを勉強。自作というところがまたすごいが,同時に「ウィザードリィ」や「ウルティマ」といった海外RPGにハマったという。さらに坂口氏は,ディスクドライブのカバーを開いて方眼紙を入れ,ヘッダーの動きが分かるようにしたうえでソフトを動かし,プロテクトのかかっているトラックを特定,解析するといった遊びもしていたそうだ。時代的にフロッピーディスクだと思われるが,単にゲームを遊ぶだけでなく,中身まで踏み込むあたりがクリエイターらしい。
続いて坂口氏は自らメンバーを集め,ハードボイルドアドベンチャー「ザ・デストラップ」を制作する。これが,ゲーム開発者としての本格的なキャリアのスタートだ。同作では美大出身のスタッフを採用したものの,油絵風の絵を描いてきたためゲームグラフィックスとしては使えなかったという苦労もあった。ゲームグラフィックスがどういうものか,あまり知られていなかった1980年代ならではの苦労話だろう。
その後,坂口氏はアドベンチャーゲームにアニメーション表現を取りいれた「ウィル デス・トラップII」や,ロボットが戦うSF RPG「クルーズチェイサー ブラスティー」といったゲームを作っていく。ウィル デス・トラップIIは,ゲームとしては初と言われるアニメーション表現が評判になり,クルーズチェイサー ブラスティーにも,日本サンライズがデザインしたロボットが戦うアニメーション処理が話題になっており,この頃からすでに映像表現への強いこだわりがあったようだ。
ファイナルファンタジーの大ヒット
ドラゴンクエストとの関係
電友社の一部門だったスクウェアは1986年に独立して,株式会社スクウェアとなった。PCゲームからファミコン市場に参入したものの,業績は芳しいものではなく,会社の経営は危機に陥る。しかし,“最後の作品”という意気込みで作った「ファイナルファンタジー」が大ヒットし,ここからスクウェアの黄金時代が始まった。
坂口氏のファイナルファンタジーシリーズと,堀井雄二氏の「ドラゴンクエスト」シリーズが互いに競い合いながら初期の日本のRPG界を牽引していったのは読者もよくご存じだろう。
当時,ユーザーからは同格のライバル関係にあると思われていたファイナルファンタジーとドラゴンクエストだが,坂口氏はドラゴンクエストを「雲の上の存在」のように感じていたという。
坂口氏と堀井氏は,どちらもApple IIでウィザードリィやウルティマを遊んだ経験を持ち,それに感化される形で自分達の作品を作り上げた。しかし,ドラゴンクエストは,「ドラゴンボール」の鳥山 明氏や,敏腕編集者である鳥嶋和彦氏など「プロ集団」(坂口氏)によって作られており,当時の少年文化の中心であった漫画雑誌「少年ジャンプ」で大々的に取り上げられたりしている。
一方の坂口氏は,ドラゴンクエスト発売当時,アルバイトからスクウェアの正社員になったばかり。24歳の坂口青年にとって,ドラゴンクエストがまぶしい存在に見えるのも当然だった。
しかし,「ファイナルファンタジーV」(1992年)以降,厳しいことで知られる鳥嶋氏にも認められ,坂口氏がエグゼクティブプロデューサー,堀井氏がストーリー原案,鳥山氏がキャラクターデザインを務めるという夢のタイトル「クロノ・トリガー」が生まれることになった。
この頃,鳥嶋氏は「ゲームクリエイターにもスター的な存在が必要だ」と考えており,坂口氏を積極的にメディアに登場させたという。その際にはファッションカメラマンやスタイリストをつけるという,当時ではあまり考えられなかったことも行っており,スタイリッシュに撮影された坂口氏の姿が印象に残っている人も多いのではないだろうか。
次世代機時代はPlayStationへ
大規模化するゲーム開発を目撃
PlayStationとセガサターンがしのぎを削る時代,スクウェアはPlayStation側に参入。満を持してリリースされた「ファイナルファンタジーVII」(1997年)が,当時の次世代機戦争に決着を付けたと述べても過言ではないだろう。
いくつかのキラーコンテンツを持ってスクウェアだけに,ソニー,セガの両陣営から積極的なアプローチがあったが,坂口氏が「1つでも多くポリゴンの表示できるマシンがいい」と思っていたこともあって,PlayStationの使用が決まったそうだ。
この頃から,ゲーム開発のありようが変化していく。開発の規模は大きくなり,スクウェアも多数のスタッフを擁することになった。
それまではプロジェクトチームの所帯が小さかったため,スタッフ全員が顔見知りだった。開発の最終段階では全員が集まり,明け方にゲームのエンディングを見つつ乾杯し,泣いたり笑ったりしながら完成を祝ったという。当時の坂口氏は「ゲーム開発って,なんて気持ちがいいんだろう」と考えおり,開発から完成に至るカタルシスは大きかったようだ。
この時期のスクウェア作品に対しては,開発費の高騰も指摘されている。坂口氏の働きかけにより,ボーナスなどの形でクリエイターに利益を還元しており,これが開発費高騰の一因でもあると坂口氏は振り返る。しかし,「会社が与えられるのはやる気や充実感ではなく,お金と時間(休暇)である」と坂口氏は思っており,これは現在でも変わらない。
坂口氏はまた,世界初のフルCG映画「ファイナルファンタジー」を手がけているが,映画の後半をしっかり作りきれなかったと感じている。この経験から坂口氏は,「終わらせることが大事」であると学んだ。プロジェクトが長引くと,永久ループのような状態に陥ることがあるが,完成させないと成果はゼロなので,とにかくプロジェクトをフィニッシュさせることが大切なのだそうだ。
ミストウォーカーを立ち上げ,ネット生放送という最先端に
その後,坂口氏はスクウェアを退社する。3年ほど何もしない時期が続いたが,寂しさと,自分は社会に貢献していないのではないかという思いもあって,ミストウォーカーを設立。ゲーム業界への復帰を果たした。そして,再び鳥山氏と組んだ「ブルードラゴン」や,「スラムダンク」の井上雄彦氏をキャラクターデザイナーに迎えた「ロストオデッセイ」といった作品を制作した。
さらに,「Party Wave」というスマートフォン向けタイトルにも携わったものの,1日のダウンロード数が3件という惨状に陥ってしまう。自分にスマホアプリの研究が不足していたことを痛感し,この反省を活かしてTERRA BATTLEを制作。同作は260万ダウンロードを超えるヒット作になった。
200万ダウンロード突破の公約であるコンシューマ機版の開発も進んでいるが,発表までにはまだ時間がかかるそうだ。
現在の坂口氏は “生主”として,ニコニコ生放送やYouTubeでの情報発信を行っている。設立されたばかりの関連会社には放送スタジオも用意されているというから本格的だ。
今後の活動として,この関連会社を通してインターネット生放送に関わっていきたいと坂口氏は述べる。また,スマートフォン向けにもコンシューマゲームを思わせる新作を開発中で,こちらは,見た人にスマホタイトルとは思えない,と感じさせることが目標になっている。
坂口氏はゲーム開発を「楽しい」とし,とりわけストーリーや世界観を作りあげ,その中でキャラクターを輝かせることが自分のルーツであると述べて,トークを締めくくった。
ゲーム業界のレジェンドでありながら,そのトークは軽妙で率直。司会の黒川氏を振り回すパワフルさで,時間もあっという間に過ぎた。今後,坂口氏の作る作品が楽しみに思えてくる,そんなイベントだった。
- 関連タイトル:
TERRA BATTLE
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TERRA BATTLE
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ブルードラゴン
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