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「人生に無駄なし」「チャレンジしていれば悩まない」──任天堂 宮本 茂氏,30年にわたる自らの仕事史を振り返る
宮本氏は,日本ではこういった場になかなか顔を出さないのだが,会場で聞き手として壇上に上がったアジアグラフ実行委員長の東京大学大学院 教授 河口洋一郎氏によれば,「半ばだますような形で講演をお願いした」とのこと。
河口氏は,同じ1952年生まれで,畑は違えどクリエイターとして同じく世界で活躍する宮本氏の生い立ちに興味津々といった様子。高校〜大学時代を過ごした70年代に何に興味を持っていたのか,当時,ヒッピー文化は終わりを告げ,例えば音楽ではピンクフロイドやディープパープルなどが台頭してきた時代だが,と少々意外な方向から質問をぶつけた。
すると宮本氏は,当時は確かに長髪にしてバンド活動をしていたが,演奏していたのはブルーグラス系の音楽だったというエピソードを披露。また映画では高校1年生のときに「2001年宇宙の旅」を観て「こんなSFを描いてみたい」,高校3年生の時には「イージーライダー」を観てキャプテン・アメリカを演じるピーター・フォンダに憧れていたと,当時を振り返った。
続いて宮本氏は,2008年にアメリカで編集・制作された映像をベースに,あらためて自身の生い立ちを紹介。宮本氏は,小学生の頃は「チロリン村とくるみの木」「ひょっこりひょうたん島」といった人形劇に熱中していたという。なお宮本氏によれば,「ひょっとすると後者に登場するドン・ガバチョがマリオのデザインに影響を与えていたかもしれない」と,意外なルーツを披露。
また中学生の頃は赤塚不二夫,手塚治虫,白土三平らの描く世界に憧れ,漫画家を目指したそうだ。中学校に漫画部を設立するほど熱を入れていたが,周囲との実力の差に気づき漫画家になることを断念。そこで大学では,当時人気のあった工学部へと進み,工業デザインを専攻したとのこと。教授からは,宮本氏の気質が独特だったためか,卒業後は普通に就職するのではなく,アクセサリーデザイナーにならないかと勧められたそうだ。
とはいえ,そうしたクラフト系の仕事よりも,マスプロ製品のデザインを志向していた宮本氏は,任天堂に入社。当初は教育玩具などのデザイナーとして,マクドナルドの景品のようなものや,カルタなどを手がけていたという。
宮本氏に転機が訪れたのは,1978年に登場した「スペースインベーダー」の全国的なブーム。ブームに乗って,任天堂も本格的にビデオゲーム事業に取り組むこととなり,宮本氏も開発スタッフの一人として抜擢された。そこで宮本氏は「なぜ人々は繰り返しビデオゲームにコインを投入し続けるのか」を徹底的に要素分解し,分析したという。その結果,導き出した答えの一つが「誰が見ても何をすればいいのか分かる」ことだった。
このコンセプトに基づいて考えられるゲームは,画面上にあるオブジェクトを殲滅する「ドットイートタイプ」,迷路などを抜けてゴールを目指す「到達タイプ」の二つ。前者はすでに,当時「パックマン」が人気を博していたため,後者にしようと決めたが,どのようにゴールを提示するかが問題だ。熟慮の末,大きなゴリラが女の子を連れて逃げていったら,それを追いかけるストーリーになると思い立った。これが「ドンキーコング」開発のスタートである。
さらなるチャンスは,1985年に発売された「スーパーマリオブラザーズ」だ。実はこのタイトル,ファミリーコンピュータ本体も発売から2年以上が経過し,そろそろ商品としての寿命も尽きるだろうということで,宮本氏達は「ファミコン最後のゲーム」として企画したという。ところがスーパーマリオは,続く1986年の初代「ドラゴンクエスト」とともに大ヒットを記録し,結果としてファミコンブームは拡大していった。
そうした中,ゴールに到達するゲームに飽きてきた人に向けて開発されたのが,初代「ゼルダの伝説」だ。宮本氏は,PCでRPGをプレイしている人達の会話を聞いて,プレイヤーの「成長」という要素に目をつけたという。ところが企画当初は,「どこにゴールがあるか分からない」というスタイルに批判が集中した。そこで宮本氏が考えたのは,スタート時の主人公から剣を外してしまうことだった。その代わり,誰がどう見ても入りたくなる洞窟の入り口を,主人公の近くに設置する。洞窟に入ると,おじいさんがいて「この先は危険じゃ」と剣をくれる。次は盾,その次は……といったように,徐々に「こういうゲームなんだ」と分かるようなゲームデザインを施していった。その結果,ゼルダシリーズはマリオシリーズと並ぶ任天堂の看板ブランドとして,今日も世界に君臨している。
こうしてマリオとゼルダの二大シリーズを手がけることになった宮本氏だが,会社組織的にも個人のモチベーションを持続するうえでも,そればかりをやっているわけにはいかない。そこで,それまで務めていたディレクターを他者に譲り,自分は直接開発に携わらずに,プロデューサーとして複数のタイトルを同時に手がけることになっていく。
やがてスクリーンに「ピクミン」が映し出され,あの有名な歌が流れると,「これは女子高生にも好かれる新キャラを作ろうと企画した」と宮本氏。その狙いは日本では当たったものの,とくに歌の人気に関しては欧米だとサッパリだったという。
そうした日本と欧米との比較に関連して,宮本氏は,「一般に日本ではキュートなデザインが受け,北米ではクールなデザインが受けるという思い込みがあるが,それは大きな誤りである」と指摘する。マリオに代表されるように,ゲームのキャラクターはデザイン先行で受け入れられているのではなく,面白いゲームが先にあって初めて受け入れられるというわけだ。
「ポケットモンスター」や「星のカービィ」は,北米進出にあたりデザインの変更を打診されたそうだが,マリオ同様,日本でデザインされたままでも世界に通用することを証明した。あるいは「ゼルダの伝説 風のタクト」でのトゥーンシェード採用についても,やはり当初は批判されたものの,今ではDS用シリーズで普通に受け入れられるようになったと言及。宮本氏は「世間でいう『こうじゃないと駄目』は,わりといいかげん」と,にこやかに指摘する。
任天堂の歴代ゲーム機に付属するコントローラにも,宮本氏の意見が強く反映されている。ファミコンの十字ボタン,スーパーファミコンのLRボタンは,いずれも当時流行っていたアーケードゲームとの対比から,企画段階で強い反発を受けたが,「そのうち慣れるだろう」という気持ちで開発を続けたとのこと。実際,その読みが当たっていたのは,現在のコンシューマゲーム機のコントローラが未だにファミコン/スーパーファミコンのものをベースにしていることからも明白だが,アナログ操作が必要な3D操作で宮本氏は試行錯誤をせざるを得なくなる。NINTENDO 64コントローラのアナログスティックの位置,ゲームキューブコントローラのアナログLRボタン……いずれも使い勝手やゲームとの相性の悪さから継承されていない。またボタンやスティックが増えたことにより,あまりゲームをやらない人たちにとっては複雑怪奇な代物になっていたと宮本氏は指摘する。そこで原点回帰を目指した結果が,現在のDSおよびWiiの世界的なヒットに繋がったというわけだ。
また宮本氏は,商品のネーミングやデザインはマーケティングの一環であるという考えを持っている。最近は,似たようなものが多く誰が作ったのかよく分からないものが溢れているが,どうすれば売れるかを考え,ゴールを決めれば自然に個性が生まれ,受け入れられるようになるというのだ。例えばWiiのネーミングにしても,当初欧米では幼児語のようだとして批判されたが,今では立派なニュースキャスターも堂々と「Wii」と発言するようになっている事実を踏まえ,上記のコントローラやキャラデザイン同様,使っているうちに世間も慣れて浸透していくと指摘。従来のものに慣れ過ぎた人の意見を鵜呑みにするのはよくない,と自らの基本姿勢を明らかにした。
講演の終盤,数々の成功を成し遂げる一方で,実はそれ以上に批判も受けてきた宮本氏に対し,悩むことはないのかと河口氏が素朴な疑問を投げかける。すると宮本氏は単純明快に「チャレンジしていれば悩まない」と答えた。曰く「人生に無駄なし」,すなわち失敗も何かの糧になると何事も前向きに捉えているそうで,そのうえで「本当に新しく始めるべきこと」と「慣れればどうにかなっていくもの」を常に考えているそうだ。例えばゲームキューブを開発していた頃には,DSもWiiもアイデアにはなく,「一連の流れの中で限界を感じ,流れを変えようと考えたときに初めて思いついた」とのこと。
今では「次はまた『Wii Fit』のようなものを作るのか」と聞かれることも増えたが,そろそろインタフェースをいじることにも飽きてきた──限界を感じ始めたので,今度は別の何かをする可能性もあるという。宮本氏は,「世界で一番売れる体重計を作ったので,もう満足」と冗談をいう一方で,「ゲーム業界が培ってきたユーザーインタフェースのインタラクティブ技術は,分かりやすく親切という点でほかの業界と比べても最高峰である」と言及。DSで書籍のインタラクティブ化に成功した事実──例えば,パズル問題を解くのに鉛筆や消しゴムが不要になった──を挙げ,まだまだゲームのインタラクティブ技術は拡大していくと展望を述べた。
- 関連タイトル:
ゼルダの伝説 大地の汽笛
- 関連タイトル:
Wii Fit
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