連載
「ヨーロッパ・ユニバーサリスIII」(以下,EU3)および,その拡張パック「ナポレオンの野望」は,従来のParadox Interactive作品と比べたとき,ゲームのテイストがだいぶ変わったという声をしばしば耳にする。そして,それはかなりの部分で正しい。それゆえ,EU3は従来作品と違うものを創り上げようとした結果なのではないかという考察を,当サイトでこれまで何度か書いてきた。
一方,どれだけ「変わった」「違う」と言葉を並べてみても,EU3はEU3で世間一般の陣取り型ストラテジーと,まるで違うゲームであることもまた,疑いのない事実である。Paradox Interactiveの作品は,あいかわらずParadox Interactiveの作品であり続けている。つまり,強烈なアイロニーを醸し出さずにはいられないのだ。
というわけで,今回も「歴史のおいしいところをちょっとだけつまみ食い」的な感覚で,頭を抱えてしまうようなリプレイをお届けしたい。
オーストリアというと,ついついオーストラリアと間違えることで有名な国という話もあるが,ヨーロッパの歴史で非常に重要な役割を果たした大国であった。偉大な音楽家を魅了したウィーンは,彼らを魅了するだけのバックグラウンドを持った国の首都であればこそ,「芸術の都」として花開いたのである。
そんなオーストリアで最も有名な君主といえば,やはりマリア・テレジアその人であろう。啓蒙専制君主の一人であり,オーストリアの近代化に尽力した人物として後世の評価は非常に高い。
だが彼女の治世において,オーストリアは軍事的に敗北敗北また敗北と,苦境の連続であった。わけても,のちに大王(the Great)とまで呼ばれるフリードリヒ2世を戴くプロイセンとの戦争は,オーストリアにとって厳しいものであり続けた。
しかし後知恵で考えてみれば,中部ヨーロッパ,つまり「ドイツ」が形成されるまでの過程でプロイセンとオーストリアが争ったのは,大きなマイナスであったという見方もできる。結局プロイセンとオーストリアは,当時さして豊かでもない中部ヨーロッパという地域を,実質的に2分割する方向に動いた。その最終的なツケと因果は,やがて,遅すぎた大ドイツ主義の挫折へとつながっていく。
果たしてこの過程において,オーストリアがその大国たる意地を見せ,成り上がりのプロイセンを叩き潰すことは不可能だったのだろうか? オーストリア史上に残る名君マリア・テレジアの力を以てしても,やはりフリードリヒ2世は打ち破れない壁だったのか? 試してみることにしよう。
まずはゲーム開始年代を1740年に設定する。女性であるマリア・テレジアがオーストリア大公となったのに伴い,隣国による“不当な干渉戦争”であるオーストリア継承戦争の火蓋が切られた年である。
さてプレイを始めると,いきなりだが,なぜか問題の継承戦争が起こらない。まあ,オーストリア的にはたいへんありがたいので,知らんぷりを決め込むことにする。史実でもそうだったがオーストリアは財政難で,この時期に大規模な戦争が起こるとかなりつらいのだ。
せっかく継承戦争が起こらなかったということで,まずは地盤固めに入ろう。ポーランドを筆頭とした周辺諸国と大同盟を結成し,のちのち災いの種となるに違いないプロイセンに対する包囲網を形成する。またロシア/フランスとの関係改善を進め,あわよくば軍事同盟を志す。
産業基盤と防衛施設を完備し,もののついでに国内のプロテスタント勢力をことごとく改宗させておく。それで何があるというわけではないが,オーストリアの最終的に重大な弱点が国軍の非統一性であったことを鑑みるに,とりあえず揃えられるところは揃えておくことにしよう。
当然ながら軍制改革にも着手,微妙に腹立たしいが,この時代最強の陸軍形式である「フリードリヒ大王型歩兵」に転換する。
途中,なぜかポーランドがロシアに宣戦して泥沼の戦争が10年くらい続き,やがてポーランドが降伏して領土をロシアに割譲するとかいった不思議歴史が展開されたものの,このタイミングを突いてプロイセンからオーストリアに宣戦布告とかいった展開にはならなかったので,よしとする。
降伏後のポーランドと再度同盟を締結,ロシアとの関係も最高レベルに維持し,準備は万端である。プロイセン領の正統な支配者に関する史料を偽造して宣戦の口実を得ると,オーストリア軍5万人はプロイセン領内へと……攻め込まなかった。
というのも,意図的に宣戦布告を厳冬期に行ったためである。5万の兵は普墺国境の要塞に篭もり,フリードリヒ大王率いる4万5000のプロイセン軍を待ち受ける。一方,ポーランドおよびオーストリアの同盟国家は次々にプロイセンに宣戦,プロイセン軍は厳冬期に4万5000の軍勢を,国内のあちこちに展開せざるを得なくなった。
EUシリーズにおいて,冬場の行軍はそれだけで軍隊を損耗させる。4万5000の軍勢は瞬く間に数を減らしていき,また多正面作戦の愚を冒したこともあって,オーストリア軍正面にはおよそ1万の兵しか残らなかった。
春になった段階で,オーストリア軍主力はプロイセン領に向かって進軍を開始する。もはや戦争の行く末は決まっていた。オランダがプロイセンに加担して戦争に参加したが,その程度で何かが変わるわけではない。フリードリヒ大王はポーランド領深くに侵攻して行ったが,要するにこの戦争は,1か所で負けても2か所で勝てばよいという,1813年のナポレオンでも頭を抱えそうな話なのだ。
だが,あろうことかここで突然フランスがオーストリアに宣戦布告。友好度は+200と最高値であったにもかかわらず,ルクセンブルクやベルギー付近のオーストリア領に容赦なく攻め込んでくる。これはおそらく,中部ヨーロッパに新たなスーパーパワーが生まれることを未然に阻止すべきだという,彼らにしてみればたいへん賢明な判断のすえに違いない。
プロイセンの息の根を止めたいところではあるが,これ以上,小者にかかずらわって戦争を続けると,イタリア経由でオーストリア本国までの侵攻を許しかねない。泣く泣くプロイセンおよびオランダと和平を締結,賠償金を得るとともにシュレジェン領要求を取り下げさせることには成功したが,出費と比較して,あまりにも小さな勝利でしかなかった。
その後オーストリアとフランスの戦争は10年以上続き,やがて双方とも消耗しきって,戦争は「なかったこと」として和平が締結された。……思うにフランスでは革命が10年は早まっただろうし,オーストリアは没落までのカウントダウンを10年分くらい急いだような,そんな無意味な戦争であった。
ついでに言うと戦場になった北イタリアでは,100年くらい歴史が後退したようだし,交通事故同然にヴェネツィアも轢死した。オーストリア主導による大ドイツ主義は,プロイセン撃破に成功しつつも,見事にヨーロッパを破綻させたのである。……やっぱり外交革命(仏墺同盟)って大事だったんだなあ。
ということで,明らかになったのは「プロイセンを殴る前にフランスとは同盟しておけ」という,史実どおりの教訓なのだが,それはそうとしてAIは史実で実現した外交革命を成就させてくれない。実に困ったことだ。
やむなく,少し時代をさかのぼってみる。1736年2月12日,マリア・テレジアとロートリンゲン公子フランツ・シュテファンとの婚姻が成ったタイミングを開始時期としよう。当然ながらオーストリアの君主はマリア・テレジアの父,カール6世である。
この段階において,プロイセンはロシアおよびドイツ諸州と同盟関係にある。開始早々ポーランドから同盟の申し込みがあったので,これを快諾。再びプロイセン包囲網を形成する。
と,ここで突然プロイセンがポーランドに宣戦布告。小考したあと,これ以上の好機はもうないと見きってポーランドからの援軍要請を受諾し,プロイセンに宣戦布告する。このときオーストリア軍は1万5000人前後,とてもプロイセン陸軍に対抗できる数ではなかったが,国土の広さを活かして後退戦術を取りつつ,オスマン国境付近で徴募した歩兵で軍を再編成して反撃を開始。戦線を広げすぎていたプロイセン軍は各個撃破され,半年とかからず自領へと追い返された。
こうなってしまうと,オーストリアの豊富な人的資源は,戦場における圧倒的優位へと変換される。プロイセンがどれほど質に優れていようとも,寄せては返す波のように送り込まれるオーストリア軍に抗する術はない。やがてポーランド戦線でもプロイセン軍は敗退を重ねるようになり,最終的にプロイセンはポーランドとオーストリアによって分割占領された。
和平案として,オーストリアはダンツィヒおよびシュレジェンへの領土要求の撤回,国教のカソリックへの転換と,ポメラニアの独立を要求。プロイセンはこれを受諾し,事実上プロイセンは再起不能となった。
その後,同盟国家が周辺諸国に宣戦布告するたびに,オーストリアはその援軍要請に乗るかたちで参戦し,ヴェネツィアを都市国家に押し戻したうえ,北部ドイツ諸州を次々に属国化していった。
結果,マリア・テレジアが即位するころには事実上の大ドイツが成立。彼女は父の作った戦費による借金を返済しつつ,国内の文化発展と行政改革に乗り出すことになる。プロイセンとの最終的な決着は,プロイセンが自力で国内をカソリックに再改宗させた頃,あらためて着けよう。なにもオーストリアが改宗のコストを支払う必要はない。
「パパが,やるべきことをやるべきときに済ませなかった結果,娘がそのツケを払いました」……今回のプレイによれば,どうもこれが普墺関係と大ドイツの真相だったらしい。まかり間違っても歴史的な真相ではないだろうが,これはこれで興味深い可能性といえよう。
また,フランス,オーストリア,プロイセンというヨーロッパ中核諸国がガチで殴りあうと,喜ぶのはイギリス,ロシア,トルコなど外縁諸国だという構図は,外交ゲームの古典的名作「ディプロマシー」も指し示すとおりの展開だ。パパが頑張れたのは,フランスとロシアのにらみ合いが背景にあって,たまたまプロイセンを単独で殴れるタイミングだったからである。ヨーロッパの二重同心円型“三国志”をナメではいけない。
陸軍戦術の歴史を大きく変えたはずのフリードリヒ大王を,ぺしっと一息に叩き落としてしまった今回,その影響を受けた軍事的天才たるナポレオンの誕生すら邪魔してしまった気もするが,それを言ったらフランス革命の一方の当事者である王妃マリー・アントワネットは,マリア・テレジアの娘である。オーストリア率いる大ドイツが,結果としてフランスに仕掛ける嫌がらせとして,ナポレオンの不在とマリー・アントワネットの不在は,どちらが大きいのであろうか? どちらも間違いなく歴史を揺るがす大事件だと思うのだが,およそ必然性のかけらも見当たらない。げに恐ろしきは,ボタンの掛け違えということである。
|
- 関連タイトル:
ヨーロッパ・ユニバーサリスIIIナポレオンの野望【完全日本語版】
- 関連タイトル:
ヨーロッパ・ユニバーサリスIII【完全日本語版】
- この記事のURL:
キーワード
(C)2007 Paradox Interactive. All rights reserved. Europa Universalis is a trademark of Paradox Interactive.