企画記事
市場の拡大とは新しい視点からの顧客開拓――「激動の国内オンラインゲーム市場10年史」を掲載
今回で7冊めとなる「オンラインゲーム白書」だが,昨年に引き続き,その制作には4Gamer編集部も協力している。中身は,26000件以上に及ぶユーザーデータをまとめたタイトル分析や,各業界人のコラムなど,激変するオンラインゲーム業界の動向を押さえるうえで,参考にしたい資料に仕上がっている冊子だ。
今回は,そんな「2011オンラインゲーム白書」の発売に合わせる形で,昨年の「2010オンラインゲーム白書」に4Gamerから寄稿した記事を公開してみたいと思う。記事のテーマは「激動の国内オンラインゲーム市場10年史」である。
これは,1996年の「Diablo」,あるいは1997年の「ウルティマ オンライン」を堺に勃興したと見られる日本のオンラインゲーム市場について綴ったもの。その時々で何が流行り,その背景にはどういった経緯があったのか,若干駆け足気味ではあるが,まとめてみた内容である。いまどきの若い読者であれば,知識(?)として見ると興味深いかもしれない。
ソーシャルゲームの台頭やスマートフォン市場の拡大など,市場環境が激変しつつある昨今だが,オンラインゲーム市場,ひいてはこれからのゲーム市場全体を考えるにあたって,過去の歴史から学べることもあるはずだ。なにぶん1年前の記事なので,さすがに多少古いと思える箇所もあることと思うが,読者の皆さんにとっていくばくかでも参考になれば幸いだ。
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※以下「2010オンラインゲーム白書」より転載
ブラウザゲームの年,2009年はこうして訪れた
激動の国内オンラインゲーム市場10年史
CSO(Chief Strategic Officer)兼4Gamer.net副編集長 平 信一
日本のオンラインゲーム市場の勃興をいつとするかの確固たる定義はないが,1996年の「Diablo」と,それに続く1997年の「ウルティマ オンライン」サービス開始前後,あるいは「ファンタシースターオンライン」(セガ)や「アプサラス」(コーエー)など,国内のゲームメーカーが本格的に参入し始めた2000年前後,このいずれかがその境目となることに異論を挟む余地はないだろう。
どちらにせよ,国内のオンラインゲーム市場が本格的な立ち上がりを見せてから,すでに10年以上が経つことになる。コアゲーマーが中心だった黎明期から始まり,カジュアルゲームの隆盛を経て,近年では,急激な普及を見せるブラウザゲーム/ソーシャルゲームという新興勢力の台頭と,わずか10年という歴史の中で,あらゆる方向へと振れる劇的な変化を遂げてきたのが,オンラインゲーム市場である。その節々の変革では一体何が起こり,市場を支えるプレイヤー達は,それに対してどういう反応/変化を見せてきたのだろうか。
本稿では,日本のオンラインゲーム市場の歴史を大きな転機ごとに振り返り,それぞれの変革期における要素を洗い出してみたいと思う。昨年2009年の動向がなぜもたらされたのか,そしてゲーム業界の未来を見通すために何が必要なのか。昨年にいたる大きな流れを整理しながら,その部分に迫ってみよう。
本書を手に取る読者の中には,「いまさら」と思われる箇所も多々含まれるかとは思うが,しばしお付き合いいただければ幸いだ。
パッケージビジネスの時代(1992〜1996):
一部のGeek達だけのものだった黎明期と,そこからの脱皮
日本におけるオンラインゲーム――当時は,ネットゲームという呼称のほうが一般的だったと記憶する――の胎動は,北米で発売されたマルチプレイ対応PCゲームの輸入という形で始まった。
とはいえ当時の国内では,対戦をするためのインターネット環境などは,まだほとんど整備されておらず,加えてゲームそのものがマニアックだったこともあり(FPSはマニア“だけ”が遊ぶようなゲームだったのだ),DOOMにせよその後に登場する「Quake」(1996年)にせよ,日本では,北米ほどのムーブメントには至らなかった。
しかし,1996年に発売されたアクションRPG「Diablo」の登場をきっかけに,状況は大きく変化していく。Diabloが日本人ゲーマーに馴染みのあるRPGというジャンルだったことも一因ではあったが,そのゲームとしての完成度とマルチプレイを前提にした数々のシステム,Battle.netというゲームサーバーを標準で実装していることなど,オンラインゲームを遊ぶために必要な要素をゲーム側ですべて用意していたことから来る手軽さが,Diabloのブレイクに大きな役割を果たした。
それまでのゲームでは,ゲームとそれをオンラインで遊ぶためのロビーサービスは別物であることが通例であり(そのためのソフトウェアはパッケージにバンドルされることも多かったが),実際にオンラインで遊ぶまでの手間や必要となる知識が,ある種の障壁となって立ちはだかっていたのだ。その壁をあっさりと打ち崩したのが,Diabloだったのである。
Diabloは,オフライン用のシングルゲームとしてだけ見ても,紛れもない名作である。しかし,もし仮にBattle.netという「場」(コミュニティ)を同時に用意していなかったら,ここまで伝説的な作品にはなり得なかった可能性が高い。パッケージゲームでありながらもコミュニティを前提としたゲーム/サービス設計を施した作品(しかもそこに膨大なコストを掛けるという発想は,当時の北米でも異例)という意味で,Diabloは,その時代のエポックメイクなタイトルとなり得た。
ちなみに,続編となる「Diablo II」は2000年に発売される。システムのベースはそのままに,より洗練され,パワーアップされた同作は,ダンジョン探索型のMORPG(Multiplayer Online Role-Playing Game)の完成形として,後に登場するゲーム群に多大な影響を与えた。日本でもカプコンが代理店となり,日本語版のパッケージが国内で流通した。海外産のPCゲームとしては異例となる10万本を超えるヒットとなり,オンラインゲームが日本で市民権を得る過程で,大きな役割を果たしたのである。
パッケージ+月額課金の時代(1997〜2002):
コミュニティサービスとしてのオンラインゲームを示した
「ウルティマ オンライン」
ウルティマ オンラインは,北米における代表的な古参ゲームデザイナーであるリチャード・ギャリオットが企画/構想したオンラインゲーム。従来のオンラインゲームと比べるとアクション性は低かったものの,広大な世界と圧倒的な自由度の高さが特徴的な,ある種の牧歌的な雰囲気が漂うユニークなRPGであった。
当時,MMORPGというジャンルそれ自体がすでにエポックメイクであったわけだが,月額課金をベースとしたビジネスモデルや,α版やβ版から大々的にプレイヤーを募り,その意見やテスト結果を開発にフィードバックさせていく手法など,現在のオンラインゲームに繋がる土台が,ここで出来上がったと言っても,おそらく否定の声は挙がらないだろう。
またウルティマ オンラインは,国内のオンラインゲーム市場においては,機敏な操作を要求されるアクションゲームなどが苦手な,女性や中年層といったプレイヤー層を開拓したタイトルでもあった。
いかにも“洋ゲー”といった外見とは裏腹に,プレイヤーキャラクターのカスタマイズやガーデニング,ハウジング機能など,今で言うアバターサービス的なシステムが,主婦をはじめとした女性プレイヤーや,のんびりとゲームを楽しみたい層に,深く,強く,アピールできたのである。
当時の日本市場においてウルティマ オンラインは,ゲームという枠を超え,グラフィカルなコミュニティサービスという強い需要を,最も早く,そして最も強く,示した作品だったのだ。
(*)ウルティマ オンラインよりもEverQuestよりも早く,1996年にはすでに「Meridian 59」という3D MMORPGが存在した(筆者も遊んでいた)。運営はなんと3DO Company。Diablo→UOという流れの中で,歴史の波に飲まれた不幸な作品である。
無料βテスト+月額課金の時代(2002〜2004):
「ラグナロクオンライン」は何がエポックメイクだったのか
国内のオンラインゲーム市場を語るうえで,「ラグナロクオンライン」(2002年)の爆発的なヒットに触れないわけにはいかない。本作は,韓国のゲームデベロッパGravityが開発したMMORPGで,それまで日本で知られていた,コア向けの硬派な,あるいは殺伐とした作品が多かったMMORPGというジャンルのなかで,アニメ調の可愛いキャラクターを前面に押し出してインパクトを打ち出した,事実上最初の作品である。この作品の登場で,それまでのオンラインゲーム……つまり北米から入ってくる“洋ゲー”には見向きもしなかった層の関心が,一気に高まったのである。
そんな4Gamerの読者の中には,当時,ラグナロクオンランに対して冷ややかな視線を向けるプレイヤーも少なからずいた。曰く,「ゲームシステム的に洗練されていない」「クリックして敵を倒すだけで単調」「アイテムの種類も少なすぎる」。いまだから正直に述べるが,当時の4Gamerメンバーの多くも,そうした読者と同様の考えを持っており,ラグナロクオンラインには心惹かれなかった。すでに「ウルティマ オンライン」や「EverQuest」という重厚長大なMMORPGを体験済みだったし,先行するそれらと比較して,わざわざ乗り換えるほどの特徴も面白さも見えなかったからだ。
しかし,そんな古参のオンラインゲーマーの評価をあっさりと覆し,ラグナロクオンラインは,日本で爆発的なヒットを成し遂げる。当時,4Gamerでα版のクライアントファイルを配信したのだが,アクセスが殺到し,当時の4Gamer運営元であるソフトバンク・パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)全体の回線とサーバーをダウンさせるほどだったのだ。 余談になるが,このβクライアント,実はソフトバンク・パブリッシングの許可を得ず,当時のサーバー担当者と結託して勝手に会社のサーバーに置いたファイルだったので,呼び出しをくらい,大量の始末書を書くはめに……。それも今となっては良い思い出なのだが。
オンラインゲームに興味はあったが海外ゲームには食指が動かなかった層,そもそもMMORPGというジャンルを知らなかった層などが,ラグナロクオンラインの登場によって掘り起こされた。本作は,既存の狭い市場に対してアプローチするのではなく,“まだオンラインゲームを遊んだことがない”より広い層へとアプローチすることで,結果的に大きな成功を収めたタイトルだったわけだ。
ゲームシステム的な面では,目に付く要素が特になかったラグナロクオンラインだが,少なくとも日本市場におけるマーケティングや新たな市場の開拓という意味で,エポックメイクな役割を果たした作品だったのである。
さて,このラグナロクオンラインを模範とする,当時よく言われていた成功モデルが,無料のテスト(オープンβなど)を実施して広くプレイヤーを集め,その後の有料化で10〜20%程度の有料会員が残るというビジネスモデルである。
今でこそ無料βが当たり前になってはいるが,この方式は,従来までの「パッケージありき」のビジネスモデルと比較して,圧倒的にプレイヤーの参入障壁が低く,拡大期の顧客獲得競争にもマッチしていく。
タダで遊べるのだから友達も誘いやすい。結果として友達が友達を呼び,まるで乾いたスポンジに水が染みこむかのように,ラグナロクオンラインは,膨大な数の顧客獲得に成功するのである。この無料βテストという取り組みが,オンラインゲーム市場の拡大に大きな意味を持っていたことは確かであろう。
ただ一方で,この方式にはいくつかの問題点もあった。一つは,無料でプレイヤーを遊ばせるためのインフラコストが膨大に掛かること。もう一つは,言うまでもなく有料化の際に多くの顧客を逃がしてしまう点である。そして,その二つに絡んだ問題として,無料期間と,有料へと切り替えたときのプレイヤー数のギャップからくる,運営体制やサーバー台数などの予算の作りづらさがあった。
この頃から,次々に登場するオンラインゲームを無料テスト期間中のみ遊び歩く,“ジプシー”や“タダゲー房”と呼ばれるプレイヤーが多く登場した。当時は,無料βテストの乱発が,結局のところ市場全体の客単価を下げているのではないかという議論も起こったのである。
- 関連タイトル:
ウルティマ オンライン
- 関連タイトル:
ラグナロクオンライン
- 関連タイトル:
スカッとゴルフ パンヤ
- 関連タイトル:
ブラウザ三国志
- 関連タイトル:
ドラゴンクルセイド
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