連載
『戦争における「人殺し」の心理学』
著者:デーヴ・グロスマン
訳者:安原和見
版元:筑摩書房
発行:2004年5月
価格:1575円(税込)
ISBN:978-4480088598
どうにも穏やかでない題名だが,ヒューマニズムをめぐる重要な問題提起となっているのがこの本,デーヴ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』だ。自分の命が危険な戦場においてすら,いかに人が人を殺したくないか,そして,そうした人として正常な抵抗感を,現実の軍隊がどのように「克服」するのかを,元アメリカ陸軍の将校である著者が多くの実例に基づいて解説する。
説き起こしの話題として著者は,第二次世界大戦における米軍歩兵の平均的な発砲率が,わずか15〜20%にすぎなかったことに触れる。偵察や弾薬のデリバリー,仲間の救出など,もっと危険な任務を進んでやる兵士達も,とにかく敵を撃ちたがらない。こうした傾向は南北戦争やクリミア戦争,それ以外の戦場でも見られ,小銃兵の挙げる戦果は歴史上常に,計算上の命中率とは比較にならないほど小さくあり続けてきたという。
戦場で兵士が感じる最大の苦痛といえば,自分および仲間が殺されることへの恐怖だと,普通は想像するものだ。だが実際に兵士が嫌うのは自分の死ではなく,仲間の死ですらない。そこにあるのは「人を殺す」ことへの抵抗感であり,殺したことへの自責の念であると,著者および著者の挙げる先行研究は雄弁に語っている。
南北戦争の大会戦であったゲティスバーグの戦場で回収された2万8000丁の単発ライフル・マスケットのうち,1万2000丁には2発以上の弾が込められ,6000丁には3発以上の弾が入っていた。なかには23発も詰め込まれたものも見つかっているが,これは何を意味するか? 兵士の多くは弾を込めるフリをし続けることで,ひたすら発砲の責任から逃れていたらしい。
たとえ撃ったとしても,それが過たず敵に向けられていたとは限らない。著者の引く例によれば,銃はまずその銃声による威嚇,もっと言えば自分の恐怖を打ち消すためだけに乱射され,敵兵の頭上を抜けていくばかりのことが多いのだという。銃剣戦闘でも同様で,多くの兵は銃を逆さに持って銃床でなぎ払う,つまりは敵兵の接近を無我夢中で阻止しようとするばかりで,銃剣の本来的機能に従って敵を刺す者は少ないそうだ。
ことほど左様に,人は人を殺したくないし,戦場に限らず相手の悪意を真っ向から浴びることに,抵抗と恐怖を感じる。著者はそれこそが人間性であり,人類にとっての希望であることを,まず確認する。
そのうえで,戦場において殺人を可能にする条件を,順番に確認していく。その内訳は,物理的距離,心理的距離,機械の介在,集団免責,権威の命令などさまざまだが,何万人もの死者を出す戦略爆撃に参加するよりも,ナチの収容所で看守役をやるほうが心理的な抵抗が大きく,PTSD(心的外傷後ストレス)に悩まされる可能性も高いという説明が端的だ。自分で残虐だと思う事態に,面と向かって取り組んだり,それを間近に見たりすることが,「加害者」の側に重篤なストレスとなってのしかかる。
また,こうした視点で前近代の戦争を見たときに,古代ギリシア兵のファランクスは長い槍で殺す相手との距離を保ちつつ,陣形によって集団免責を発生させる有効な仕組みであったろうと著者は述べる。加えて,騎兵と比べたときチャリオット(戦車)には何ら戦術的合理性はないが,それがチームで運用されたことの利点に注目すべきだといった指摘も,極めて重要なものだろう。
その一方で著者は,長期の従軍でも戦争神経症にならず,敵を殺す/殺したことに深刻なストレスを感じることのない,全兵員で2%の「攻撃的精神病質者の素因を持つ者」の存在にも触れる。第二次世界大戦における米陸軍戦闘機部隊の戦果はその40%までが,全パイロットのわずか1%によって稼ぎ出されたこと,また専門の狙撃兵に選抜される者や,いわゆる特殊部隊に属する者の活躍がそうした人材の活用成果であり,アメリカ精神医学界(APA)の「DSM III-R」に言う「反社会的人格障害者」が,アメリカ成年男子の約3%であることと平仄が合うのだという。
ともあれ,その2%に該当しない大多数にとって,敵を撃つことは大変なストレスであり続ける。米軍は,そんな普通の兵士達の発砲率を上げることに成功し,朝鮮戦争で55%,ベトナム戦争で90〜95%という成果を収めた。その秘密が,B.F.スキナーのオペラント条件付けを応用した手法であり,具体的には標的の形状や挙動を本物の敵兵に似せ,かつ訓練での成績に正のフィードバック(徽章の授与や外出許可)を加えることだった。訓練と状況次第で,人は人を殺せるようになるのである。
終章近くで著者は,アメリカの若年層における殺人事件の増加(1957年〜1990年)と,映画/テレビゲームによって起こる(と著者が考える),人格モデル(長上の振る舞いを目下が学ぶこと)なき条件付けの危険性について警鐘を鳴らしている。指揮官の統制を受けない“発砲訓練”が持つかもしれない危険性の強調には,逆に軍のあり方(条件付きで人を殺せる人を育てていること)を社会的に是認する意図のようなものを感じないでもないが,軍の必要性を確固たる信念とする立場から見れば,首尾一貫した主張ではある。例えばメディアが個人に与える影響を論ずる限定効果説と,著者が指摘する「攻撃的精神病質者の素因を持つ者」,そして現実に起こる犯罪との関係についてなどは,著者の説を参照する一般社会側の課題として残されるだろう。
戦争という異常事態を対象としながらも,人間の持つ善良性と残虐性,それぞれの発揮条件という,より広い枠での考察に到達しているのが,本書の侮れないところだ。その性質上,残虐行為とその背景に関する具体的な記述が含まれているため,読んでいて実に辛い部分もあるのだが,戦争をモチーフとした作品に触れる人には,ある種の責任として(?)目を通してほしい本でもある。
人類の希望を表す数字らしいですよ?
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