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セガで「ハングオン」などのヒット作やセガサターンに携わった後,独立を選んだ石井洋児氏 ビデオゲームの語り部たち:第39部
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印刷2024/10/21 08:00

連載

セガで「ハングオン」などのヒット作やセガサターンに携わった後,独立を選んだ石井洋児氏 ビデオゲームの語り部たち:第39部

画像集 No.001のサムネイル画像 / セガで「ハングオン」などのヒット作やセガサターンに携わった後,独立を選んだ石井洋児氏 ビデオゲームの語り部たち:第39部

 「ビデオゲームの語り部たち」第39部は,セガ時代に「ハングオン」などのヒット作や,セガサターンの開発に携わり,現在はアーゼストの代表取締役会長 CEOを務める石井洋児氏に話を聞く。

 石井氏との出会いは、私(黒川文雄)がセガに中途入社した1994年に遡る。私は業務用ゲーム開発部署である第2AM研究開発部,通称「AM2研」所属の宣伝担当責任者として,鈴木 裕部長(当時)から石井氏を紹介された。 
 当時のセガでは,業務用ゲーム開発と,家庭用ゲーム開発の間には深くて広い,見えない川のようなものがあり,お互いに自分たちが開発するゲームという作品で牽制しあっていたように思う。そのためか,私からは石井氏を始めとする,家庭用ゲーム開発部署の主だった人々には畏敬の念を抱きながらも,ある種の畏怖の存在でもあった。

 あれから30年が経ち,このところ,あの頃とは異なるスタンスで,石井氏を始めとした畏敬と畏怖の対象であった方々と再会する機会が増えた。そして分かったことは,その畏敬と畏怖は,モノづくりに対しての強い意志と情熱だということだ。
 今回の「ビデオゲームの語り部たち」は,子供時代からセガ入社,そして独立まで,石井洋児氏の歩みを振り返り,注いできた情熱の一端を語ってもらった。

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昆虫採集や読書から若者向けスポーツまで,何でも楽しんだ学生時代


 石井氏は1955年10月,東京・町田に生まれた。当時の実家は,建築資材を扱う会社を営んでいたという。学校は,幼稚部から大学まで一貫して玉川学園系列だった。

 「小学生の頃から昆虫採集が大好きで,北岳みたいな3000メートル級の山に連れて行ってもらって。頂上までは行かないんですけど,8合目くらいまで登って蝶を捕ったり、なんてことを高校生までやっていましたね。玉川大学の農学部にある昆虫学研究室には中学生の頃から入り浸っていたから,自分もそこに入るものだと思っていました」

 また,新しい遊びを誰よりも先に試すようなことも好きだったそうだ。

 「僕が10歳の頃だから1965年,当時は誰も知らなかったフリスビーで遊んでいました。未だに友達から『変なものを持ってきて,皆で遊んだ』って言われる(笑)。3歳上の兄貴が,そういう新しいものを持ち込んでくるんですよね。
 それで中学2年くらいのときに,今度はスケートボードを持ってきた。当時はローラーサーフィンって呼ばれていたんですけど,高校の夏休みは玉川学園のキャンパス内でずっとスケートボードに乗っていました」

 石井氏のスケートボードの腕前はかなりのもので,大学時代には東京サマーランドで行われた日本ローラーサーフィン選手権で2年連続3位に入賞したこともあったという。

 「高校大学時代でサーフィン,ヨット,スキー,スキューバダイビング,それから今でもやっているテニスと,何でもやっていましたね。いわゆる『ポパイ世代』。だから,社会人になって最初に買ったクルマはカルマンギアでした(笑)」

 そうしたアウトドアな趣味を持つ一方で,石井氏は読書家でもあり,学校の図書室にある小説をほとんど読み尽くす勢いだったと話す。学生時代の思い出を語ってもらうだけで,さまざまな経験を積極的に吸収していたことが伝わってくる。

 「作家になろうかと思ったこともありましたね。北 杜夫さんが,作家になるために一番いいのは毎日日記を書くことだとおっしゃっていたんですよ。それで,中学1年のときから結婚するまで毎日日記を書いていました。
 でも,結婚したときに全部燃やしたんです。『こんな危険なものは置いておけない』って(笑)。今思えば,取っておけばよかったですね」

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セガの社内制度を使って製造部の社員から技術職幹部候補生に


 大学では昆虫の研究に専念するつもりだったが,知人の「これからは電子工学だ」という言葉を聞いて,「なるほど,カッコいいかも」と思ってしまったという石井氏。結局,玉川大学工学部に進学し,電子工学を専攻することとなった。

 「大学では,まったく学業はやりませんでした。進級に必要となるミニマムな単位数と出席日数だけ取ってね。専門課程では,半導体を作ったり,半導体を応用して何かを作ったりという研究をしていました。
 たとえば超音波を飛ばして,跳ね返ってくるまでの時間を計算して距離を測定するとか。そうやって,視力の低い人でも距離が分かるような機械を作ろうとしていました。今だと当たり前かもしれないけど,当時は画期的でしたね」

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 そんな学生生活が,石井氏のセガ入社のきっかけとなる。

 「玉川大学工学部の学部長が,当時のセガの取締役と非常に親しかったんです。それで見込みのある学生をセガに紹介していたんですね。だから僕の前にも,何人か玉川大学からセガに入っていました」

 石井氏自身もまた,「モノづくりをするなら,遊びに関われるものがいい」と考え,就職活動をしていたそうだ。

 「遊びと言えば,おもちゃ屋さんですよね。それでバンダイ(当時)やサンリオに会社訪問していました。それでサンリオの入社試験を受ける前に,セガから話が来たんです。ゲーム会社が新入社員を募集しているなんて知らなかったから,『これは面白い』と」

 石井氏をセガに誘ったのは,大学の先輩にあたる青木直喜氏だったという。
 1978年4月,石井氏はセガに入社し,当時はゲームの開発ができることへの期待で胸がいっぱいだったそうだ。

 「外資系の会社で面白そうだったし,当時は完全週休2日というところも今ほど多くはなかったし。場所も羽田空港の近くで,当時はアメリカに一番近い場所だったんです」

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 しかし石井氏の配属先は,セガの研究開発部ではなく製造部技術課だった。

 「昔のことはよく覚えていないんですけど,先日姉に聞いたら『あの頃は酷かった。帰ってくると文句しか言ってなかった』って(笑)。アーケードゲーム機の最終チェックをする部署だったんですよ。組み立て終わったものが,きちんと動作するかを確認していました。
 製造部技術課時代の後半では,『スペースアタック』と『ヘッドオン』の2つのゲームが入った『スペシャルデュアル』と呼ばれる筐体のチェックもしていました」

「スペースアタック」と「ヘッドオン」が入った「スペシャルデュアル」
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 そんな職場ではあったが,先輩の青木氏が研究開発部に異動したことから,石井氏も「自分もいつか行けるんだろう」と希望を持って勤務できたという。

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 「1979年,当時日本で最大のゲーム問屋だったエスコ貿易から,中山隼雄さんが副社長としてセガに入ってきて,『これからのゲーム作りには優秀な人材が必要だ』と言ったんです。でも,優秀な人材にはそれだけ高い給料を払わないといけない。当時は労働組合がすごく厳しくて,社内の全部署で給料が一律でした。
 そこで会社が,『技術職幹部候補生』を募集する制度を設けたんです。試験に受かれば技術職幹部候補生として,毎月手当てをもらえる。新卒でも既存の社員でも条件は同じだからフェアでしょうと,会社が打ち出したわけですね」

 石井氏は,その試験に見事合格し,1980年に技術職幹部候補生として研究開発部に異動となる。

 「試験は3つありまして,1つは五肢択一の国家公務員上級試験相当の技術職試験。2つめの試験は,役員の目の前でピンボールの球を使って作れる遊びのアイデアを1分間に可能な限り挙げていったり,たとえば「3:4:5」と書かれている紙を出されたら「三平方の定理」と答えるようなことを次々に繰り返していったりするものでした。3つめは筆記の技術試験。
 あとで人事部の人に聞いたら,1つめの試験は,結構な数の社員が受けた中,僕の成績が一番よかったそうです。2つめの試験もそこそこよかったらしいですね」

 技術職幹部候補生に提供された月々の手当は,2万5000円。当時の平均給与額からすると,かなりの収入アップとなったが,石井氏の業務も相応にハードなものになったそうだ。

 「あの頃,開発は本当に忙しくて,毎日朝から終電までずっと働いて土日も出勤みたいな状態だったので,月300時間労働とか平気でやっていましたね。残業代も青天井だったから相当出たと思うんですけど,全部使っていました。夜の12時から『飲みに行こう!』って(笑)」

 また当時のセガは,アメリカのGremlin Industriesを買収しており,石井氏は技術職幹部候補生の1人として同社で研修を受けたこともあった。

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 「その時代はGremlinからゲームを仕入れて,日本向けに出荷していたんです。日本でもそういうゲームを作らなければいけないということで,研修にはG80基板用の開発機材が10台以上用意されていて,幹部候補生は皆そこでプログラミングの勉強をしていたんです。
 その幹部候補生が日本に帰ってきて,1981年頃から社内でのゲーム開発にもっと力を入れるようになりました」

製造部技術科の様子。右下の写真が石井氏だ
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鈴木 裕氏との出会い,そして「ファンタジーゾーン」と体感ゲームの大ヒット


 それまでのセガのゲーム開発は,プログラマーやエンジニアがトップにいて,その下にグラフィックス担当がいるという体制で行われていたという。だが,「優れたゲームを作るためには企画が重要なのではないか」という話が持ち上がり,1981年頃には企画課も立ち上がった。

 「僕はハードウェアの技術者で,『プロモナコGP』のエンジン音や『ザクソン』のサウンドなどを作っていたんですけど,ときどき『こんなゲーム,どうですか』と企画課長のところに企画書を持っていきました。当時はワープロソフトなんてないですから,もちろん手書きですよ」

ザクソン
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 当時のセガがゲーム開発に注力した理由の1つには,自社運営のゲームセンターに供給するゲームが必要だったことが挙げられる。

 「あの頃は『スペースインベーダー』の大ブームの直後だったので,セガは1600店だったか1800店だったかのゲームセンターを持っていたんですよ。それだけあるゲームセンターすべてに他社のゲームを入れるとなるとかなりの出費になるので,自社でゲームを作る必要があった。
 だから他社がヒット作を出すと,『あれと同じようなゲームを作ってくれ』と社内の営業部からオーダーが来るんです。それも僕に直接じゃなくて,開発部長のところに」

 そうしたオーダーのもと,石井氏がナムコの「マッピー」キラーとして開発したのが,1984年5月に稼働を開始した「フリッキー」だった。

 「『フリッキー』のあとくらいに研究開発会議があって,中山さんが開発者を集めて『何でセガはいいゲームを作れないんだ』みたいなことを聞いてきたんですよね。それで僕が『プログラマーの技術力が低いからだ』と答えたんです。その頃の僕は,プログラマーに対して『お前ら,オレの考えているものが作れないのか』と腹を立てていたからそう言ったんですけど,中山さんは笑って『面白いな,お前,名前は?』って。部長達は『石井,余計なこと言うな!』って言っていましたね(笑)。そのときが,初めての中山さんとの接点でした」

フリッキー
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 そして同年11月稼働開始の「チャンピオンボクシング」も石井氏が企画したタイトルで,鈴木 裕氏がプログラミングを,小玉理恵子氏がグラフィックスを担当したことでも知られている。

 「裕はまだ入社して半年から10か月くらいで,具体的なプロジェクトにはまだ加わっていなくて,吉井さん(吉井正晴氏)の手伝いでいろんなプログラミングをしていたんですよね。それで『チャンピオンボクシング』を作ろうという話になったとき,吉井さんが『裕ちゃん,空いているよ』と」

チャンピオンボクシング
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 当時の鈴木氏を「すごく素朴な感じ」と表現する一方で,その頃から斬新なアイデアを生み出していたと石井氏は振り返る。

 「『チャンピオンボクシング』で使ったSC-3000/SG-1000はチープなハードだったから,スプライトが貧弱で大きなキャラクターを動かせなかったんですね。だからゲームセンター用のゲームを作るとなると,どうしてもグラフィックスにインパクトがなくなる。
 それで,『普通のボクシングにしてもダメだから,でっかいの出そうよ』と裕に無茶ぶりしたんです。そうしたら,背景1枚を3つに切って,それをパタパタ書き換えて大きなキャラクターの動きを見せるというアイデアを出してきて。裕はそういう無茶ぶりに応えてくれるんですよね」

 そして1985年にヒットしたKONAMIの「グラディウス」に対抗するべく,石井氏は1986年3月に稼働開始した「ファンタジーゾーン」を手がけることに。

ファンタジーゾーン
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 「営業が『グラディウス』キラーを作ってくれとオーダーを出してきたので,先輩のチームがチャレンジしたんですけど,それがボツになったんです。それで僕らがやることになったんですが,私が企画し,プログラマーが片木(片木秀一氏),グラフィックスが入社したばかりの近藤君(近藤正樹氏)という本当に若手ばかりのチームでした」

 「ファンタジーゾーン」の自機パワーアップシステムは,各種のパーツを購入し装備していくというものだが,石井氏によるとチューニングカーショップをイメージしたという。

 「『グラディウス』の何が面白いのかを探るために,とことん遊んでみたんですけど,パワーアップで自機の姿がどんどん変わっていきますよね。でも,空を飛んでいて,何かに触って急に変身するのは少しおかしい。
 そんなとき,当時見に行っていた富士フレッシュマンレースが頭に浮かんだんです。出場者は皆,サニーやカローラをチューニングしているんですよね。ゲームの中でも,どこかにチューニングショップみたいなものを設置して,そこで自機をチューニングするのが正しいだろうと。チューニングするためには代金がいるから,お金集めをしなければならない。そういう順番でゲームを作っていきました」

 「ファンタジーゾーン」は国内で大ヒットし,当時の主要なコンシューマゲーム機でも次々にリリースされたが,海外では振るわなかった。

 「SEGA USAでロケテストをやったんですけど,海外,とくに欧米ではパステルカラーが受けないんですね。あとはデフォルメした可愛いキャラクターもダメなんです」

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 「ファンタジーゾーン」と並行して石井氏らが手がけていたのが,セガの体感ゲーム第1弾「ハングオン」だ。このタイトルは,バイク型の筐体にまたがり左右に傾けながらコーナーを曲がっていくという斬新な操作や,なめらかな3Dスクロールと自然なコーナリングの実現などによってゲーマーの注目を集めた。

ハングオン
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 「僕はディレクター寄りのプロデューサーという立ち位置でしたね。最初はディレクターだったんですけど,『ファンタジーゾーン』も同時に開発していたから。僕としては両方とも力を入れていたんですが,グラフィックス担当の浜垣(浜垣博志氏)は僕が何もしてないと言っていましたね(笑)。裕からも『コースを作ってくれ』と言われて,2つくらい考えました。でも,裕がメインで企画から考えたタイトルです」

 「ハングオン」の大ヒットにより,セガの業績はかなり上向くこととなる。その勢いは,時期を前後して竣工された新社屋が,社員から「ハングオンビル」と呼ばれていたということにも表れている。

ハングオンビルこと新社屋
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 続く体感ゲームシリーズの人気も上々で,石井氏は第4弾となる「アウトラン」を手がけることに。

アウトラン
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 「クルマのゲームを作る話が先にあって,裕と僕とで海外にロケハンに行こうと。それで僕から,映画『キャノンボール』みたいにアメリカをずっと走ったら面白いんじゃないかと提案したんです。でも危ないからダメと言われて,それでヨーロッパに行ったんですね。現地では,言葉が分からないので僕がずっとクルマを運転していて,裕が撮影や交渉などを全部やっていました」

 この頃の石井氏は第1研究開発本部の部長となっており,「アウトラン」の開発の多くは鈴木氏に任せていたという。「アウトラン」のあと,セガは開発体制を再編し,第1AM研究開発部(AM1研),第2AM研究開発部(AM2研),第3AM研究開発部(AM3研)……といった形になっていく。石井氏はAM1研の部長を務め,「忍 SHINOBI」や「獣王記」「ゴールデンアックス」などを手がけた。

 そして1992年12月,石井氏は,AM研究開発本部の本部長だった鈴木久司氏から,1993年1月1日よりCS研究開発本部に異動を命じられる。

 「セガはコンシューマ事業を1985年くらいからやっていて,その部署はハングオンビルの6階に入っていたんですよ。中 裕司もそこで『ソニック』を作りました。中は,1階上にいた僕のところに『こんなゲーム作ったから見てください』と『ソニック』の1ステージができるたびに呼びに来て,僕も触ってみて『え,もう終わっちゃうの? メリハリないじゃん。もっとこうしたほうがいいよ』とか言っていましたね。中も『やっぱり,もっとメリハリがあったほうがいいですよね』と答えたりして。いい子だったんですよ」

 1993年当時は,すでに第1コンシューマ研究開発部(CS1研)と第2コンシューマ研究開発部(CS2研)が存在しており,石井氏は3DCGに特化したハードウェアの開発を手がけることとなる。それが,1994年11月に発売された「セガサターン」である。

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 「CSではまだ3DCGのハードウェアがなかったので,それを作れる技術者や企画,デザイナーを連れて行けと言われました。約2年間の開発期間中に,チップを倍にするなど結構な仕様変更があったのでドタバタしていた記憶がありますね」

 以降もセガサターンの事業に取り組んでいく石井氏だったが,後継機で1998年に発売された「ドリームキャスト」の展開には賛同していなかったそうだ。

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 「だってまだ,サターン用のゲームを60タイトル以上開発中だったんですよ。それなのにドリームキャストのテレビCMが始まって。PlayStationには少し抜かれたけど,『プロサッカークラブをつくろう!』とか『プロ野球チームをつくろう!』とか,サターンのゲームはまだまだ国内で売れていたのに」

 その後,紆余曲折あって,ドリームキャストはセガ最後のコンシューマゲーム機となる。

 「オンライン機能を持つゲーム機というのは,当時の会長だった大川さん(大川 功氏)の夢だったんですよ。そしてその夢は間違いじゃないし ,素晴らしいものでした。ただ,時期が早かった」

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もともと独立するつもりだった人生後半。自社IPの創生にも意欲


 1999年,石井氏はセガから独立し,アートゥーンを設立した。

 「もともと人生を前半後半で分けて考えていたんですね。前半はセガのような企業で働いて,後半は独立する。大学を出て,22歳から60まで働くと考えると,40歳を過ぎたら独立したいなと。それでサターンが一区切りついたら,どこかのタイミングでセガを辞めようと考えていました」

 2004年にアートゥーンを核にし,関連する2社と統合したAQインタラクティブが創業。石井氏はAQインタラクティブの代表取締役社長としてコンテンツ開発を先導する一方で,新しい時代の到来を感じていた。

 「アートゥーンの頃からはPlayStation 2が出たり,MicrosoftがXbox事業に参入したりと新しい時代を感じましたね。
 僕がセガを辞めた理由の1つに,セガのプラットフォームでしかゲームを作れなかったことがあるんですよ。僕自身は,任天堂やソニーなどいろんなところでマルチに作りたかったんです。このゲームは,このプラットフォームということを,自分達で選びたかった。そうやって成長していきたかったんですね」

AQインタラクティブ時代の写真
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 そんな石井氏だったが,2010年にはAQインタラクティブの役員を退任し,新たにアーゼストを設立する。同社もまたゲーム開発に取り組んでいるが,企業理念に「キャラクターに生命(いのち)を!」を掲げているように,世界中の人達に愛されるキャラクターの創造をメインに据えている。

 「よく,1つのタイトルがリリースされるまでに3年かかると言われますよね。開発者が1つのプロジェクトに関わると3年間かかりっきりで,それしかやれない。次の3年で,また1つのプロジェクトにしか関われないとなると,開発者の成長がかなり遅くなります。それが現状です。
 ただ今後は,AIなども含め,もっとゲームが作りやすくなっていくはずです。それに,ゲームが発展していけば,今のゲームとはまったく違うものもゲームと呼ばれるようになるかもしれません。そういったところに可能性があると思いますね」

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写真提供:石井洋児氏 セガ ©SEGA

著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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