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セガ,ナムコ,ドリームファクトリー……「バーチャファイター」以降,さまざまな環境に身を置いた石井精一氏の足跡 ビデオゲームの語り部たち:第38部
今回の「ビデオゲームの語り部たち」第38部は,2017年12月17日掲載の「ビデオゲームの語り部たち 第2部:『バーチャファイター』のプロトタイプに込められた石井精一氏の人生」で取材した石井精一氏の,「それ以降」の足跡を追った。
ビデオゲームの語り部たち 第2部:「バーチャファイター」のプロトタイプに込められた石井精一氏の人生
メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が,ビデオゲームの歴史で記録・記憶しておくべき人々や場所などを振り返る連載「ビデオゲームの語り部たち」。第2部は,「バーチャファイター」のベースとなったプロトタイプについて,同作のディレクションを担当した石井精一氏に聞きました。
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- ライター:黒川文雄
ゲーム産業に限らず,クリエイティブな世界には,作品に関わったクリエイターそれぞれの想いが宿る。セガ,ナムコ,ドリームファクトリーという軌跡を辿った石井氏が,周囲のサポートを受けながら得たもの,そして失ったものは何だったのだろうか。
3D格闘ゲームを1人で作れることを示すため,ナムコで「鉄拳」を開発
石井氏が当時のセガにあった第2ソフトウェア研究開発部(AM2研)にてプロトタイプを作り,チームとともに完成させたアーケード用3DCG格闘ゲーム「バーチャファイター」は,1993年12月に日本で正式稼働を開始した。しかし石井氏自身は,その日を待たずにセガを辞職し,ナムコ(現バンダイナムコエンターテイメント)に移籍している。
「セガは,1993年8月のアミューズメントマシンショーに『バーチャファイター』を出展したんですが,12月にはもう稼働させる予定だったんです。私自身は“自分のゲーム”として,もっと時間をかけて作り込みたかったんですが,AM2研のほぼ全員で一気に作り上げることになって。
それで,いろんな人が入ってきて,彼らの個性が注入され,ゲーム的によくなったんですが,もう1回,最初から自分で作ってみたいという思いがありました。ただ,セガにいたのでは,『バーチャファイター』の続編を作るしかない。私1人がいれば,同じようなものが作れるということにチャレンジしたかった。
そんなことを考えていたとき,同期でセガに入って,先にナムコに移籍していた知人から『来ないか』と誘われたんです。それで話を聞いたら,『バーチャファイター』みたいなゲームを作ってほしいと」
3DCG対戦格闘ゲームという,それまでになかったジャンルのゲームのプロトタイプを作った功績を持つ石井氏だったが,セガからはとくに慰留されなかったそうだ。
「むしろ,『どうせ行くとこ,決まってるんだろう。正直に言ってくれ』と。それまでは,『一身上の都合で』と言っていたんですが,もう正直に言いました」
石井氏は,もともとナムコのゲームが好きだったことから,移籍を決めたという。
「ナムコが実際にどんな会社かは分からなかったけれど,ナムコの開発したゲームは好きでしたね。『バーチャレーシング』を作ったときも,『リッジレーサー』がどこよりも先行してテクスチャマッピングを使用していたので,羨ましかったです。
『リッジレーサー』を作ったメンバーのひとりがセガに転職してきて,仲よくさせてもらっていたので,彼に『ナムコに行きたいんだ』と相談もしていたんです。もっとも彼は,私とは逆でナムコからセガに来たわけですから,微妙な反応でしたけど」
ナムコに移籍した石井氏は,アーケードゲームを開発する部署に配属されるが,開発体制とウマが合わない部分があったそうだ。そこで,独自にチームの人材を固めていった。
「セガはどちらかと言うとプログラマー主導で,技術面やプログラム面の意見が通りやすかったんです。一方ナムコは偉い人が皆企画出身なので,企画主導の体制でした。たまたま私が配属された部署がそうだっただけで,ほかは違ったのかもしれませんが。
それで私の知り合いをどんどん連れてきて,『鉄拳』チームを作ったんです。ナムコに採用された新人や中途採用者の中から,3DCGに詳しい人を回してもらったりもしました」
当初は「リッジレーサー」と同じナムコのアーケードゲーム基板「SYSTEM22」(※)用に開発する予定だった「鉄拳」だが,途中で仕様が変更されることとなる。
※ナムコ開発による3DCGに特化したアーケードゲーム用基板。
「SYSTEM22はテクスチャが豊富に使えたので,画的にも結構いい感じのプロトタイプができたんです。そこから急に,会社の事業戦略の都合で『初代PlayStationでも動くようにする』となって,SYSTEM11(※)用にスペックダウンせざるを得なくなり,ツラかったですね」
※PlayStationに互換性のある基板。
ただ,石井氏の強い要望により,「鉄拳」の開発環境に3DCGソフト「Softimage」(※)を導入することは叶った。
1986年,カナダのケベック州モントリオール市で創業したメーカーのソフト。初期の3DCGゲーム開発に使用されたツールとして知られている。。
「Softimageがなかったら,『バーチャファイター』はできませんでしたからね。それで『鉄拳』の開発でも使わせてくださいと」
また「鉄拳」の世界観やストーリー,キャラクターの作り方も,「バーチャファイター」のそれを踏襲した。
「『バーチャファイター』のときと同じように,ノリで作っていました。だからキャラクターそれぞれの元ネタが何となくイメージできます。ただ,スタッフによっては,そういった作り方ではなく,企画担当がきちんと考えたほうがいいと思っていたかもしれません」
「鉄拳」と言えば,右手のボタンを押せばキャラクターの右手が動くといったように,四肢それぞれにボタンを割り当てた操作体系も当時は斬新だったが,これは石井氏の発案だったという。
「ナムコなら,そういうものを作れるんじゃないかって。当時,『スターブレード』という大型筐体のアーケードゲームがあったじゃないですか。実際に人間が動くことによって,ゲームの操作ができる。そんなことが格闘ゲームでもできるかもしれないと考えたんです。制約が結構あって,作るのは大変でしたけど」
そうやって開発された「鉄拳」のアーケード版は,1994年12月に稼働開始。つまり,「バーチャファイター」の稼働開始から約1年という,非常にタイトなスケジュールで開発が進められた。
「格闘ゲームの開発は大変なんですけど,その中でもとくに大変なのが,実は調整なんです。キャラクターごとの強い弱いが均等になるよう,技をフレーム単位で専門チームに調整してもらう。1フレーム速く動けるように,硬直を1フレーム減らすといった調整にすごく時間がかかります。ただ初代『鉄拳』のときは急いで調整しなければならなかったので,専門チームを作らずに,私達開発チームが調整していました」
初代「鉄拳」のあと,石井氏はすぐに「鉄拳2」の開発に着手。基板は同じSYSTEM11だった。
「SYSTEM11でいろいろ試した結果,『鉄拳2』のグラフィックスはいい感じになったと思います。とくに初代PS向けのゲームの中では,かなりいいグラフィックスになっていますよね」
そうした石井氏らの注力の結果,初代「鉄拳」および「2」は,アーケード版よりもPS版のほうがセールスがよかった。とくに「鉄拳2」は,PS用ソフトとして初のミリオンセラーを達成している。
「当時,アーケードゲームはあまり売れなかったから,『PS版は絶対売れるように』と上層部から言われていましたので,売れて本当によかったです」
しかし石井氏は,「鉄拳2」のアーケード版が1995年8月に稼働開始したあと,翌年のPS版のリリースを待たずにナムコを辞職してしまう。
「『辞めてくれ』と言われたんです。それと当時の私は正社員ではなく,プロジェクトを成功させるための嘱託みたいな位置付けでしたから,これはもうナムコにいても上には行けないなと感じていたのも,辞めた理由の1つですね」
スクウェア傘下時代のドリームファクトリー,命運を分けた2001年
PS版「鉄拳2」のセールスがよかった理由の1つとして,石井氏はオープニングとエンディングのムービーを3DCGで新たに作成したことを挙げる。そのムービーは,スクウェア(現スクウェア・エニックス)の副社長を務めていた坂口博信氏の目にも留まった。
「それで坂口さんが,私に興味を持ってくれたんです。『FINAL FANTASY』シリーズに活かせると思ったのかもしれません。坂口さんには人を介して会ったのですが,もう本当に開発者が喜ぶようなことばかりおっしゃるんですよね。『スクウェアは開発優先。開発者が一番偉いよ』とか」
そんな縁で,石井氏はスクウェアの傘下会社として,自身が代表を務めるドリームファクトリーを1995年11月に設立する。
「当時のスクウェアは,子会社をたくさん作る計画を立てていたんじゃないでしょうか。その中の1つとしてやってみないかと」
ドリームファクトリーの第1作となるPS用3DCG格闘ゲーム「トバルNo.1」は,スクウェアからリリースされた。このタイトルのキャラクターデザインは,鳥山 明氏である。
「ドリームファクトリーを設立するときのスクウェアとの話し合いの中で,私が『鳥山さんと一緒にやりたい』と言ったんです。『ドラゴンボールZ』でトランクスが活躍していた頃だったんですけれど,あんなキャラクターでやりたいと。
ただ最初は『クロノ・トリガー』のキャラクターを使った格闘ゲームにする予定だったんですよね。それで試作しているところに鳥山さんがいらっしゃって,『新しく描きます』ということになりました」
1997年には「トバル2」,1998年には「エアガイツ」と相次いでPS用格闘ゲームを開発し,スクウェアから期待を寄せられていたドリームファクトリー。しかし2001年に映画「ファイナルファンタジー」の興行が失敗に終わったあたりから,風向きが変わっていく。その失敗は,スクウェアが特別損失を計上するほどのものだった。
「最初は『映画なんて作るから』と笑っていたんですけれど,その損失があまりにも大きく,自分達にも影響があるんじゃないかと思い始めました」
2001年当時のドリームファクトリーは,PS2用アクションRPG「バウンサー」の開発真っ只中だった。このタイトルでは,PS2に搭載された「EmotionEngine」を活かした,シネマティックな表現を求められていた。
「もともとは格闘ゲームありきで,オマケとしてクエストモードやストーリーモードを作っていたんです。それなのに『映画的にしてくれ』と言われるようになって,方向性がブレてしまって。
それで,格闘バトルパートは私達が作れるけれども,ストーリーパートは作った経験がないので,スクウェアから人材を出してもらったんです。最終的には,スクウェアの人達ばかりの超大きいチームになりました」
石井氏は,ドリームファクトリーとスクウェアが別々のゲームを作って,1つに融合させたようなタイトルだったと,「バウンサー」を振り返る。そして同タイトルがリリースされた2001年12月には,ドリームファクトリーはスクウェアとの資本関係を解消し独立することになった。
「絶対次はないと思いながら『バウンサー』を作っていましたね。実際,スクウェアの子会社はどんどんなくなっていきましたから,次は自分達の番だなと」
また格闘ゲームをやってみたい思いはある
独立以降のドリームファクトリーは,クライアントから依頼を受けてゲームを開発する受託開発会社となった。
「注文があって,そのとおりに作る。クライアントからプロデューサーが来て,現場のスタッフと話していろいろ決めていきました。お金を出している以上,クライアントやプロデューサーには『自分達が作りたいものを作るんだ』という思いがありますからね。私が口を出すとおかしなことになりかねないので,ゲームの内容にはタッチせず,開発予算や納期の交渉などの調整をやっていましたね」
2003年,石井氏はドリームファクトリーに在籍したまま,家族とともにカナダに移住。これは「バウンサー」開発中に体調を崩したことが理由だ。そのくらい,スクウェアからかけられたプレッシャーはツラかったという。
「身体中に帯状疱疹ができて,病院で診てもらったら『仕事の環境を変えないと死んでしまう』と言われて。北海道や軽井沢に引っ越そうかと現地まで行ったんですけれど,何か住みにくそうだったんですよね。それで『Softimage』の件で行くことが多かったモントリオールならいいんじゃないかと」
ただ,カナダに行ってからも会社の経営などにより,石井氏の心労は絶えなかった。
「日本で社長室にいるといろんな人が来るんですが,それがなくなった分,まだ楽にはなりました。それでも実際には,現場を任せた人物と連絡が取れなくなって,その責任を負うことになったり……」
2009年を最後にドリームファクトリーはゲームの受託開発を止めてしまう。その後の石井氏自身は,スマートフォン向けのハイパーカジュアルゲームやモーション作成ツール「Live Animation」の開発などによって,会社に収入をもたらしていた。
「VTuberが今みたいに流行る前から,Live Animationを使って似たようなことを続けているんです。そのアバターを作成したツールの開発・販売もやっています」
現在,石井氏は日本に帰国することを検討している。
「ご存じかもしれませんが,カナダは物価が高いんですよ。フードコートのハンバーガー単品が20カナダドルだから,日本円だと2000円以上する。それで2000円分美味しかったらいいんですけれど,そうじゃない。むしろ日本のマクドナルドのほうが美味しいんです。カナダに来た頃は,カレー食べ放題8ドルとかだったんですけどね,どんどん上がってしまって。コロナの前はまだ安かったんですけれど,今ではもう……。日本も物価高とは聞きますが,カナダよりは安いですよ」
再び格闘ゲームを作りたいという意思もあるという石井氏。今後は,どこを拠点に,どんなゲームに関わっていくのだろうか。
「DAO(分散型自律組織)などで格闘ゲームプロジェクトを立ち上げて,資金が集まったら日本でやってみたいという思いはあります。あとは,もしセガと交渉して『バーチャファイター』の権利が扱えるようなら,DAOを立ち上げてIPをリブートしたいですね」
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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