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ビデオゲームの語り部たち 第8部:横井軍平氏の遺志を受け継ぎながら,新しい道を探し続ける株式会社コトの現在
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印刷2018/09/08 00:00

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ビデオゲームの語り部たち 第8部:横井軍平氏の遺志を受け継ぎながら,新しい道を探し続ける株式会社コトの現在

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 ゲーム好きの人であれば,かつて任天堂で数多くの商品やソフト開発に携わった横井軍平氏のことはよくご存じだろう。

 横井氏が不慮の事故でこの世を去ったのは,1997年10月4日のことだった。それから21年が経ち,時代は移り変わって,歴史にも新たなページが次々に加わっている。

 そんな中で,かつてゲーム業界に知れわたっていた横井氏の名前や,彼の開発思想と呼ぶべき「枯れた技術の水平思考」という言葉を知らない人が増えてくるのも,仕方がないことなのかもしれない。しかし,横井氏の思考や技術がビデオゲームの発展にもたらしたものは,計り知れない。

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,横井氏が残したものや,氏が設立した会社「コト」が,横井氏の意志を受け継ぎつつ,新たに生み出したものを紹介しよう。

横井軍平氏
1941年9月10日生まれ。京都府京都市出身。同志社大学工学部電子工学科を卒業後,任天堂開発第一部部長として「ゲーム&ウオッチ」,「ゲームボーイ」,「バーチャルボーイ」等の開発に携わり,宮本茂と並んで任天堂を世界的大企業へと押し上げる原動力となった
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横井さんと話をしたのは合計3時間くらい


 コト代表取締役である窪田和弘氏に,「横井氏が亡くなってからのコトの足跡と,今のビジネスの概要をお話しいただきたい」というメールを送ると,「ご連絡ありがとうございます。取材かどうかはともかく,お待ちしています」と返ってきた。

 取材当日の京都市内は,4月ながら初夏を思わせるような陽気で,早足で歩くとジャケットを着た背中にうっすらと汗をかいた。

 コトは,京都駅から市営地下鉄烏丸線で3駅目の「烏丸御池駅」近くにある。降りてみて分かったが,京都国際マンガミュージアムからもほど近い。

 横井氏が起業した当時のオフィスは,町屋を改装したものだったそうだが,現在のコトは一般的なビルの中に移っている。しかし,そのビルは1階の玄関が上がり框(あがりかまち)になっており,一段高くなったところに赤い絨毯が敷かれ,そこで履物を脱ぐようになっていた。古都京都を感じさせる佇まい,といったら言い過ぎだろうか。

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 扉のないオープンな会議スペースで待っていてくれた窪田氏が,簡単な挨拶の後でまず口にしたのは,こんなことだった。
 「今日は取材になるのかどうか分かりませんが……。実を言うと,私が横井さんと話した時間はそんなにないんです。合計3時間くらいで,話したことを凝縮したら,1時間ぐらいにしかならないかもしれません」

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 窪田氏はこちらの取材意図を気にしてくれていたようだが,例え短い時間であっても,残しておくべきことがあるはずだ。さっそく本題に入らせてもらった。

 「横井さんと初めて会ったのは1993年,『バーチャルボーイ』(※)の開発を始める会議のため,任天堂に行ったときでした。当時,横井さんは任天堂の開発第一部部長で,私はNECで半導体チップを設計していたんです。
 ただ,横井さんは冒頭の30分ぐらいしかいなかったですね。その後は,瀧さん(瀧 良博氏。後に横井氏の後を継いでコト代表取締役社長となる)や出石(いずし)さん(出石武宏氏。横井氏が任天堂を退職した後,開発第一部の部長に就任した)たちと話していた記憶があります」

※任天堂が1995年7月21日に発売したゲーム機で,3D立体視対応のゴーグル型のディスプレイを搭載するのが特徴だった。希望小売価格は1万5000円で,全世界での累計出荷台数は77万台。

 当時の横井氏は,さまざまなプロジェクトを同時進行させていたと思われる。コンセプトや商品概要などが決まった後の仕事は,基本的に部下に任せ,会議を掛け持ちしていたのだろう。


社内でも一部のみが知る超極秘プロジェクト


 当然だが,新型ゲーム機の開発は極秘事項である。当時NECにいた窪田氏も,最初からかなりの“隠密行動”を強いられたようだ。

 「1993年のある日,急に事業部長から呼び出されて『窪田君,悪いけど明日京都(任天堂)に行ってくれないか。あまりは詳しいことは話せない。現地で聞いてくれ』と。会社の行動予定表にも行き先を書くな,上司の課長にも内緒にしろとも言われました。
 さすがに上長への断りもなく出張に行くのはまずいでしょうと返したら,『分かった,じゃあ課長には俺から言っとく』と。それで翌日,任天堂へ行ったんです。NECからは自分を入れて10人ぐらいのメンバーが来ていました」

 そこで窪田氏は,横井氏からバーチャルボーイのデモを見せられた。

 「このデモが本当に面白かったんです。瀧さん,出石さんとの話し合いも面白くて,帰りの新幹線の中で,自分が担当するグラフィックスチップのアイデアを考え始めました。バーチャルボーイのメインCPUは,『PC-FX』も採用したV810で,それ以外のグラフィックスチップやサウンドチップも,オールNECなんです」

コト社内にあった「バーチャルボーイ」
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 バーチャルボーイのコードネームは「VUE」。横井の命名による「Virtual Utopia Experience」の頭文字をとったものだ。日本語に直訳すれば「仮想的,疑似的な理想郷の体験」で,横井氏の言葉を借りれば「現実にはない,全く別の面白い体験の理想郷を創る」となる。

 今でこそ,バーチャルリアリティ(VR)という言葉は広く知られるようになり,VRヘッドマウントディスプレイが店頭で手に入るようになったが,当時はまだ技術的にも珍しく,まさに時代の最先端を行くものだった。

 バーチャルボーイが発売されるのは1995年。これと前後するが,筆者がかつて在籍したセガ・エンタープライゼスも当時,VRに関心を寄せ,94年にオープンしたばかりの横浜ジョイポリスに,VRアトラクション「VR-1スペースミッション」を導入した。ヘッドマウントディスプレイを着用して乗り込む8人乗りのライドアトラクションだったが,実験性が強すぎたせいか,大きな成功を収めることはなかった。少し話がそれたが,まだVRがそういうものだったころの話である。


“京都”と“大鳥居”


 当時のNECは国内半導体市場で高いシェアを誇っており,各社からオファーがあったようだ。

 「バーチャルボーイと同じ頃に,ソニーさんからも依頼がありましたが,お断りしたんです。そのゲーム機は後に『PlayStation』と呼ばれるんですけどね……(苦笑)。
 NECが断ったものだから,ソニーさんはLSI Logicに行ったんだそうです。そのあたりの経緯はLSI Logicさんの関係者からも聞いたので,間違いないと思います」

 窪田氏は,グラフィックスチップの設計開発において,NEC社内でも一目置かれる存在だった。それを裏付けるエピソードには,またしても前述の事業部長が関わっている。

 「『窪田君,悪いけど,今度は大鳥居へ行ってくれないか』って言われたんですよ。つまり,セガさんが当時開発中だった『ドリームキャスト』でした。
 さすがにそれはないだろうと思って,『今,私が何をやっているかご存じですよね? 行けるわけないじゃないですか。ほかの奴を行かせてください。アイソレート(分断)しないとダメですよ』と言ったんです。あの当時はそんな感じだったんですよ」


NECでの師弟関係


 窪田氏はどうやって,強者揃いのNEC社内でグラフィックスチップの第一人者たり得るスキルを身に付けたのだろうか。

 「これはたまたまというか,ラッキーだったんですが,当時はグラフィックスチップ開発のスタッフが不足していて,入社直後から,GDC(Graphic Display Controller。画像表示を行う集積回路の総称)のお師匠さんのような人に巡り会ったんです。その人はすごいんですよ,匠の世界の人です。
 お師匠さんは直接の上司ではなくて,事業部が別だったんですが,毎日5時半になったら自分の実験室に来い,と言われて。5時半まで事業部の仕事をして,それからお師匠さんの実験室に行って勉強する,という日々でした。さらには毎週土曜日も実験室に来いと言われていました」

 これは直属の上長も承認済みだったという,おそらく窪田氏の才能を伸ばす最良の方法と踏んだのだろう。

 「才能を見込まれたのかどうかは分かりませんが,お師匠さんのところへ勉強に行って来いとは言われていました。
 そこでは,新しいチップのシミュレーターソフトを作っていたんですよ。当時の自分には,シミュレーターという概念すらほとんどなかったのに,仕様書をバンと送られて,これ読んでシミュレーター作って,と言われて。はぁ? シミュレーターって何ですか? みたいな感じですよ。
 まぁ,そういうことをやっているうちに,新しいチップのアーキテクチャが全部分かるようになって,グラフィックスチップの部署に異動になったんです」


仁義なきゲーム機戦争


 ここまで窪田氏の話を聞いて,個人的にはセガとNECの関わりが気になった。

 「私は大鳥居(セガ)は行かず,同僚がドリームキャストの担当になりました。彼は大鳥居,私は京都という感じですが,当時は2人ともタバコを吸っていたので,社内のタバコ部屋でよく話をしました。『どこどこのコンパイラ(プログラミングを助けるツール)はバグだらけでやってられないよ』といった感じの(笑)」

 当時は,ファミコン,スーパーファミコンという“任天堂一強時代”から,“ゲーム機戦争”へと移る時代だが,窪田氏によると,まさに戦国時代のような,熱く煮えたぎったものを感じたという。
 「『あの会社にチップの提供をやめるなら,うちがそれを採用するから……』みたいなことを言われたこともありました。そんなのできるわけないじゃんって。そういう鉄火場のような時代だったんですね。
 結局,PlayStationで採用されたLSI Logicのチップが最も売れたということになるんでしょうけど,PlayStationだって,NECの別の事業部で受ければいいと思っていました。
 この事業部は任天堂,この事業部はソニー,こちらはセガ……みたいに,それぞれのチップ構造や設計の情報さえ遮断しておけばいいんじゃないのかって。広告代理店だって,競合する会社の仕事を受けているじゃないですか。
 ただ,当時私は主任レベルのポストだったので,あまり強くは言えませんでした。自分が関わっているチップの設計と開発で手一杯でもありましたし」


「もう,ヒヤヒヤものやで……」


 窪田氏が次に横井氏と会ったのは,バーチャルボーイの発表会だった。

 「『横井さん,発売おめでとうございます』って挨拶したら,『もう,ヒヤヒヤものやで……』と言っていました。NECや私からすると,押しも押されもせぬ任天堂,横井さんですし,大ヒット間違いなしと思っていたので,本当にびっくりしましたね。あっ,そうなんだ……って」

 今となっては,横井氏の心中を明らかにすることはできないが,この『もう,ヒヤヒヤものやで……』という言葉には,いくつかの意味が含まれているのではないだろうか。
 筆者もゲームや映像の開発・製作現場を見てきたが,それらが無事に完成するかという不安,完成すると次は売れるのか,どう売るのかという不安や課題が生まれてくる。おそらくこの言葉は,バーチャルボーイのプロジェクトを指揮する横井氏の正直な心境だったのだろう。

 「横井さんの言葉からは,『バーチャルボーイは売れるかどうか分からんなぁ』という響きを明らかに感じました。『窪(くぼ)っちゃん,何そんな呑気なこと言ってんの』というふうにも感じましたね」

 横井氏が不安を抱えていたとしたら,それは的中したことになる。バーチャルボーイは全世界での累計出荷台数が77万台という,任天堂のゲーム機としては著しく低調な実績で販売を終えることとなった。


横井氏から投げかけられた最後の言葉


 横井氏は1996年に任天堂を退職してコトを立ち上げ,バンダイ(当時)の携帯ゲーム機「ワンダースワン」の企画・開発に参加した。
 NECはワンダースワン用のチップ設計をサポートしており,窪田氏も担当者の1人だったが,その仕事でコトに出向いたときが,横井氏と言葉を交わす最後の機会になったという。

 「コトに行ったのは,金曜日(1997年10月3日)の午後4時頃だったと思うんですけど,奥からふらっと出てきた横井さんから,『窪田君,いつからうちに来てくれるんや』って言われたんです。移籍とか転職なんて話は,言ってもいないし聞いてもいないのに。
 それを横で見てた瀧さんがピクッとして『センシティブな話を,なにペロッと言うとんねん』みたいなやりとりがあったのを覚えています。
 それで横井さんは『明日はゴルフや』と言って,楽しそうに会社を出て行ったんですよ。それが最後です」

 横井氏はその翌日の10月4日,知人男性が運転する車でゴルフに向かう途中,石川県能美郡根上町(現在の能美市)の北陸自動車道で,その車が軽トラックに追突する事故に遭遇。軽トラックを動かすため車外へ出たところを後続の乗用車にはねられ,搬送先の小松市民病院で外傷性ショックのため56歳の若さで死去した。

 「日曜の朝だったかな……出石さんから電話がかかってきて,『窪田さん,落ち着いて聞いてくださいね』って。それで横井さんが亡くなったことを知りました」


瀧さんの仕事観を盗みたかった


旧オフィスの入り口に飾ってあった会社表札
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 窪田氏がコトに移籍した理由は何だろうか。NECという巨大企業で,しかもその分野の第一人者となれば,一生安泰だっただろう。
 「いつ来てくれるんや」という誘いが横井氏の最後の言葉になったとはいえ,本気とも冗談ともつかないものに思えるし,極論すれば取引先の社長が亡くなるという話なら,会社員であればふつうに遭遇し得る。

 「あのときは,NEC社員の誰もが『カリスマ社長の横井さんが死んだら,会社も終わりだろう』って言っていました。でも,そう言われているのを見て,コトに行く決意というか,行ってもいいかなと思うようになりました。結局,実際に入社するまでに2年かかってしまいましたが」

 入社が遅れた理由には,家族の反対があった。

 「カミさんのほうがなかなかウンと言ってくれなくて(苦笑)。半年間反対されました。当然ながらNECは東京が拠点で,自分も家族も東京にいるわけで。
 だから,コトも最初は単身赴任ですね。カミさんからは『貯金が50万円しかないのに何を考えてんの?』とか『子供がいなければ別に反対しないけど』みたいなことも言われました(笑)」

 なぜそこまでして移籍の意志を貫いたのだろうか。

 「瀧さんの仕事観を盗んでやろうと思ったんです」

 窪田氏が横井氏と初めて会ったバーチャルボーイの会議にも同席していた瀧氏は,任天堂で横井氏とともに数多くのヒット商品を手がけ,多くの特許取得に貢献した人物である。横井氏の死後,コトの代表取締役に就任し,陣頭指揮を執っていた。

 瀧氏は代表取締役を退いた今も,コトで週に3日ほど働いている。試作機械の研究,設計,製造関係の仕事を行っており,常に新しい技術や部品に関する研究を欠かすことがないそうだ。

現在の瀧氏
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瀧氏が企画制作を手がけた「ひねもすキット」(現在は販売終了)。チラシや折り紙を使って,さまざまな工作の材料となる紙のパイプを作るキット
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 「瀧さんの仕事観を盗めるのは,自分にとってラッキーなことだと思ったんです。瀧さんの仕事観は匠の世界に近いところがありますからね。NECのお師匠さんに似ていると思いました」

 窪田氏が会社を選ぶうえで重要視するのは,規模ではなくそこで働く人,ということなのだろう。

 「そういう性格なので,NECを離れるのは大決断というほどのことでもなかったような気がしますね」

 また,窪田氏にはちょっとやそっとの困難にはへこたれないタフさもあった。
 
 「NECの頃は,いつかお師匠さんの鼻を明かしてやろう,自分のアーキテクチャの方がすごいって言わせてやろう,と思っていました。
 普通の人から見たら,お師匠さんとの関係性はすごく厳しいものに映ったでしょうし,実際僕の後任の人はお師匠さんとの仕事が相当辛かったようで,体調を崩していましたから。
 ちなみにNECのお師匠さんは,その後記録媒体の企業に移って,今では大金持ちになってカリフォルニアで悠々自適にブドウ畑をやっています」

 そうして窪田氏がコトに入社したのは,1999年の10月1日のことだった。窪田氏はその日が金曜日だったことまで,しっかり覚えているという。

 「なぜ覚えているかというと,入社日と今のオフィスへの引っ越しが同じ日だったからです。当時まだ社員は14,5人だったかな。入社当日からみんなと一緒に引っ越し作業で,翌日の土曜日も一生懸命引っ越しの続きをやっていました(笑)」

かつてコトがあった場所(京都市中京区仁王門突抜町)。町屋は取り壊されてオフィスビルになっている
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役に立たないものを作る


 窪田氏がコトへ入社する約7か月前の1999年3月4日,バンダイの携帯ゲーム機「ワンダースワン」が発売された。

 前述したように,ワンダースワンの企画開発には,横井氏が関わっている。生前横井氏は,名称の由来を,「水面上は優雅に見える白鳥でも,水面下では脚を必死にバタバタさせている」と語っていたという。これには「外見上はスマートだが,中身は高性能」という意味があるそうだ。

「ワンダースワン」
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 ワンダースワンは,かつて横井氏が任天堂で手がけたゲームボーイの市場に参入することになったわけだが,当然ながらそれらとの差別化を図る試みも用意されていた。その1つが今で言うところのCGM(Consumer Generated Mediaの略で,ユーザー参加型のコンテンツ制作)で,オリジナルゲームが作れる開発キット「ワンダーウィッチ」の販売が行われた。

 ワンダースワンは後継機種のワンダースワンカラーとスワンクリスタルを含め,本体は350万台,ソフトは1000万本以上の販売を記録した。しかし,徐々にソフトリリース数が減少し,2003年2月にはスワンクリスタルが受注生産へ移行することが明らかにされ,それが事実上の撤退宣言となった。

 窪田氏は,ワンダースワンの開発に携わっていた頃をこう振り返る。

 「NECのエンジニアとしては,ワンダースワンの開発以外にも,いろいろなことをやっていました。コトに移って,ワンダースワンの周辺業務や後継機開発に集中するようになったんですが,それが楽しくてしょうがなかったですね。早く月曜の朝にならんかな……そんな感じでした」

 ただ,コト入社当時の窪田の興味は,ほぼ技術的なものだけに向けられていたという。

 「今はもう変わりましたけど,あの当時はエンターテインメント的なものにまったく興味がなくて。そっちはバンダイさんがやるんでしょう,といった感じで,ひたすらロジック設計をしたり,SDK(ソフトウェア開発キット)を作ったりしていました」

 そういう意味では,エンターテイメント性を追求するコトへの移籍は,窪田氏にとってカルチャーショックだったようだ。

 「テクノロジーだけの会社だったら,NECとそれほど変わりませんからね。コトに移籍して分かったのは,従来型のハードメーカー,たとえばNECとか松下さんでは,エンターテイメントビジネスができないんだろうな,ということです」

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 それはまさに「思想が違う」とでも表現すべきものだったようだ。

 「考え方が全く違うんですよ。エンターテイメントは『役に立たないものを作る』という開き直りがないとできないんです。
 例えば,私が所属していたNECのような組織は,『社会や人の役に立つものを作ろう』という発想が原点です。でも,役に立つものを作ろうと思うと,変なものができあがるんですよ」

 窪田氏は例として実際にあったアプリの事例を話してくれた。

 「とある研究所の方が来て,『ゲリラ豪雨を30分前に予測するアプリで,住民を避難させたいんですけど,どうすればいいですか』という依頼があったんです。
 それでアプリの試作品を見せてもらったんですが,それらが見事に“役に立つアプリ”になっていたので,それじゃあ駄目ですよと申し上げました。
 役に立つアプリは,ほんとうにそれが起きるときにしか使われないんです。日頃から使ってもらっているアプリでないと,非常時に使ってもらえないということは,彼らも分かっていると思うんですけど。大企業や政府機関とかの人達って,『役に立つものを作るんだ』という思い込みがあるからダメだということに気づいていないんじゃないでしょうか」

 窪田氏はそのアプリに,かつての自分を見たのかもしれない。

 「役に立たないものを作ることがエンターテイメント,企画というものなんだなって。ワンダースワンも,当時,自分がもう少しそちらに目を向けていれば,バンダイさんに違った提案ができていたかもしれません」


ワンダースワンでの心残り


 窪田氏は,ワンダースワンの開発において,エンターテイメント性に目を向けるべきだったと語ったが,実際に導入を計画しつつも,最終的にできなかった“あること”が心残りになっているようだ。

 「今になってこんなことを言っても後の祭りですから,あまり言いたくないのですが……。当時,私たちが強く思っていたのは,変革すべきはインプットデバイス(入力装置)だということなんです。
 携帯ゲームの特徴的なインプットデバイスというと,ニンテンドーDSのタッチパネルが思い浮かぶかと思いますが,コトではタッチパネルを載せたワンダースワンのプロトタイプを作っていました。

 ニンテンドーDSの大ヒットを考えると,なんとも“惜しい”話だが,なぜ時代を先取りできたのだろうか。

 「自分が半導体屋だったから余計そう思えるのかもしれませんが,ゲームのデベロッパやパブリッシャの人達は,プラットフォーマーが提供するハードウェア環境を何の疑いもなく使うように感じるんです。プラットフォームを拡張するとか,改良するとか,こう変えたら良くなるんじゃないか……みたいなことはほとんど思わない。
 与えられた場所で,いかに俺のプログラムコードのデキがいいか見せてやる,という感じです」

 ソフトウェアとハードウェアはいわば“畑が違う”わけで,手を出しづらいのは,ある意味で当然かもしれない。窪田氏の言うこともよく分かる。

 「それで私は,もっとハードウェアのインプットデバイスを提供すれば,ソフトウェアがガラッと変わるんじゃないかと思っていたんです。そういった開発戦略は,コトからもっと提案するべきだったと思います。
 実行できなかった我々と,実行した任天堂……ということではないでしょうか」

 窪田氏はタッチパネル以外にも,さまざまな仕掛けを考えていたようだ。

 「当時のGPSレシーバーは高価でしたが,安く展開する方法もあったんです。GPS衛星からの位置情報データを3つ即座に補足するようなものじゃなくて,5分くらいの間に衛星が捕まえられて,だいたい何市の何町にいるのかぐらいが分かるものだったら,当時でも500円でできたと思います。
 そんなものであっても,『夏休みにおばあちゃんの家に行って,こんなモンスター捕まえて来たよ」ぐらいのことはできたはずです。
 そうやって,インプットデバイスの企画を考えるのがだんだん面白くなっていきました」

 窪田氏は,さらにもう1つの“変革”を考えていた。

 「ワンダースワンのオープンプラットフォーム化です。つまりワンダースワンを4800円のスモールコンピュータにしてしまおうということです。ただ,そうするとゲームタイトルがコピーされてしまう危険性が高まるという問題があって,実現はしなかったんです。ゲーム機のメーカーにはサードパーティーを守る義務がありますからね」

 いずれも斬新な試みで,ワンダースワンが短命に終わってしまっただけに,実現していたらどうなっただろうか……という思いが湧いてくる。きっと窪田氏にもそれはあるのだろう。

 「このあたりを全部ひとまとまりの企画書にして出していれば,バンダイさんをうまく誘導できていたかもしれないですね」


あわや販売終了から巻き返したゲームボーイ


 窪田氏が考えていたインプットデバイスやオープンプラットフォーム化と同じように,実現していたらワンダースワンの運命を変えたかもしれないことがもう1つある。ゲームボーイの販売終了だ。
 窪田氏は瀧氏からそれを聞いたという。

 「任天堂がゲームボーイの販売を終える決断を一旦下したと聞きました。なぜそれが覆ったかというと,有名な話ですが『ポケットモンスター 赤・緑』(以下,ポケモン)が出たからです。
 任天堂は月間ハードウェア販売台数があるラインを下回ると販売終了を考えるそうなのですが,ポケモンのリリース前はそのラインギリギリだったと聞きました。そのままだったら,ゲームボーイの販売はもっと早く終わっていたかもしれませんね」

中央にある白色の2台がゲームボーイ,その右にある緑色のものがゲームボーイポケット
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 窪田氏は,リリース前のポケモンと“ニアミス”しており,そのことをしっかり覚えているそうだ。

 「幕張メッセで開催されたファミコンスペースワールドで,バーチャルボーイの横に,ゲームボーイのスペースがあったんです。
 そこで出石さんが『これがゲームボーイの飛躍に貢献するソフトですよ』って教えてくれたのがポケモンだったんです。瀧さんも『ポケモンを展示の前面に出せ』と指示していました。私は何も知らなかったので,『ポケモン。へぇー…』くらいしか思っていませんでしたが」

 何も知らなかったとはいえ,ポケモンはやはり窪田氏の印象に残ったようだ。

 「その後で出石さんに,『ポケモンって,そんなに面白いんですか』って聞いたんです。出石さんは,コロコロコミックからポケモンとのタイアップ提案があったとき『編集部全員がポケモンを全クリしたら考えます』と返したらしいんですが,本当に全員がクリアして,面白くてしょうがないって言っていたそうです」

 ポケモン発売後の大ヒットは今さら説明するまでもないだろうが,それに大きく貢献したのが,通信ケーブルを使ったポケモンの交換だ。

 「瀧さんも『通信ケーブルがなかったら,ポケモン(の成功)はないよね,アウトだったよね』って言っていました。
 私が『なんでゲームボーイにケーブルジャックを付けたんですか?』と聞いたら,『あれなぁ,基板に追加するだけで2円のコストやったんや……それでとりあえず入れといた』と。
 瀧さんはさらに『小ヒットは最初の開発者の想定内から生まれるが,大ヒットは想定外からしか生まれない』とも言っていました。ジャックをつけたのは横井さんと言われることもありますが,ゲームボーイの設計はすべて瀧さんの仕事です」

 コト設立後,横井氏はあるインタビューで,今までのテレビゲーム機に変わるゲーム機の構想を明かし,「3年後を見ていてください」と語った。

 その新型ゲーム機がワンダースワンだったわけだが,その発売時,横井氏はすで他界しており,市場はポケモンによって再び命を吹き込まれたゲームボーイが席巻していた。

 販売終了寸前まで追い込まれたゲームボーイだったが,ポケモン発売後に小型軽量版の「ゲームボーイポケット」,バックライト搭載の「ゲームボーイライト」が発売され,ワンダースワンのリリース時(1999年3月4日)には,カラー液晶画面の「ゲームボーイカラー」が登場しているという状況だった。

 ポケモンのソフトも「ポケットモンスター 青」「ポケットモンスター ピカチュウ」と,バージョン違いがリリースされ,1999年11月には新作となる「ポケットモンスター 金・銀」の発売を控えていた。初代の発売から10年が経っても,ゲームボーイはまだまだ現役のゲームプラットフォームだったのだ。

 「瀧さんも,自分たちが設計したゲームボーイにワンダースワンが追い込まれるとは思っていなかったでしょうね」

 ちなみに,ゲームボーイポケットは,横井氏が任天堂で関わった最後のゲーム機でもある。

 「瀧さんは,横井さんから『任天堂を辞めるから,3か月でゲームボーイポケットを作れ』と言われて,『はあ?』となったそうですよ。横井さんからしたら,任天堂に置き土産を残さないといかんという思いだったんでしょう。
 ただ,後になって横井さんは『(ゲームボーイポケットを)やらなきゃよかった』と言っていました。本人から聞いたから間違いありません。ポケモンのようなものをワンダースワンでやればよかった……という思いもあったでしょうね
 ドタバタで開発したゲームボーイポケットが,ポケモンのタイミングとうまく合って大ヒットした。面白いですよね。そういうのって」

 そもそもワンダースワンのプロジェクトも,そんな感じで始まったようだ。

 「“横井さんが以前から温めていて,任天堂退職直後に始めた”というわけではないようです。コトを設立してから,山科さん(元バンダイ代表取締役社長の山科 誠氏)との接待の席で生まれた話だと聞いています。」


横井氏と山内氏の“親子喧嘩”


 ワンダースワンがコト設立後に生まれたプロジェクトとなると,横井氏が任天堂を辞めてコトを立ち上げた理由は何だったのだろうか。

 横井氏は同志社大学を卒業後,約30年間任天堂で働いたが,50歳になったら任天堂を辞めて自分の好きなことをやりたいと常々思っていたという。
 管理職ではなく,何かを考えて,作る仕事自分の手に取り戻したいという気持ちがあったということは,今まで多くのメディアが伝えてきたところではあるが,窪田氏に話を聞くと,違った側面も見えてきた。

 「横井さんが任天堂を辞めたのは,山内さん(当時任天堂の社長を務めていた山内 溥氏)との親子喧嘩みたいなものだと言われています。横井さんが山内さんに『独立して1人でやりたいんだけど』と伝えたら,『今まで通りでいいじゃないか』みたいな答えが返ってきて,こじれちゃったってことじゃないですかね。
 どちらかが折れて和解すればよかったのですが,当時はお互いに『(会うのは)待って,様子見しよう』となってしまったようです」

 そして窪田氏は,横井氏がもう少し任天堂に近い場所で働くこともできたと考えているようだ。

 「任天堂100%出資の『任天堂デベロップメント』みたいな会社を作って,横井さんがそこの社長として自由にやってもらうのが一番よかったと思うんだけど。
横井さんをこう使おう,という戦略的なことを山内社長に進言する人がいなかったのかもしれません。
 今さらこんなことを言っても,死んじゃったらしょうがないですよね……」

 死んでしまった者は戻らず,残されたものは悲嘆に暮れる。窪田氏と同じように,山内氏も,横井氏の葬儀で悲しみに沈んでいたという。

 「横井さんのご葬儀には,NECを代表して参列しました。
 先に密葬があって,そのあと社葬だったと思いますが,参列者がいなくなったあとも,山内さんがずっと座ったままだったのを覚えています。
 ショックを受けていたんでしょうね。傍目から見ても,喧嘩したままっていうのは可哀想だなと思いました」


現代の日本は不足が不足している


 横井氏が遺し,窪田氏や瀧氏らコトのスタッフが受け継ぐ「枯れた技術の水平思考」によって生まれた商品には,派手さこそなくとも,人間の原始的な情感に訴えるものがある。

 「そんな大層なものじゃないですけど,横井さんが遺していったメモを見ていたら,常に“役に立たないもの”を考えていたというのは感じました。
 また,横井さんはその時代に不足しているものを,娯楽として提供していたと感じるんですよ。大事なことだと思います。まぁ,横井さんはそこまで考えるというより,本能的にやっていたとは思うんですが」

 ただ,時代が変わるにつれて,「不足しているものを娯楽として提供する」という方法はやりづらくなってきているようだ。今の日本はいろいろな面で満ち足りている,ということなのだろう。

 「瀧さんは『現代日本社会は不足が不足している』って,よく言うんです。例えば子供への接し方にしても,今は手取り足取りですよね。いきなり殴るみたいなことはないし。理不尽さの中に置かれる子供というのはすごく少なくなっていると思います。
 ただ,世の中って,理不尽なことだらけじゃないですか。事故で死んでしまったりとか。普段満たされていると,そこに理由を求めようとして,苦しくなりますよね。私はそういう意味でも不足が不足している,と思うんです」


医療にエンターテイメントを


 コトが手がけた商品には,電子スタンプテクノロジー「DigiShot」や,紙でできたパイプを組み立てて,ロボットや動物を作るキット「パイプロイド」シリーズなど,さまざまものがあるのだが,中でも異彩を放っているのが,タブレット型弱視訓練機「Occlu-pad」だ。

 弱視は「見る訓練」が足りていないときに起こるもので,原因にはさまざまなものがあるが,分かりやすい例では,体の向きをいつも左を下にして寝ている赤ちゃんが挙げられる。左の目が布団に隠れて使わないでいると,脳が右目しか使わなくなり,左目が弱視になる場合があるそうだ。

 そういった片眼弱視は8歳か10歳ぐらいまでの感受性期間に訓練することで治せるというが,その訓練にはいろいろと課題があったらしい。

 「一般的な弱視矯正の訓練は,健常な目のほうにアイパッチを貼って,弱視の目だけで新聞にある「の」の字に赤ペンでマルをつけるといったものなのですが,これがものすごく苦しいらしくて。しかも片方の目を訓練中に閉じているから,正常な目が弱視になる可能性が出てくるわけです。
 それを解決しようと作られたのが『Occlu-pad』で,コトではソフトを担当しました。これを使うと両眼を開けての訓練ができます。副作用もなくて,1日に何時間やってもいいんです」

 「Occlu-pad」は,訓練が必要な側の眼でだけディスプレイの画像が見られる専用眼鏡をかけて使用するもので,画面を動き回るアリをタッチ&ドラッグで捕まえたり,見本の通りに羊の毛を刈ったりといったゲームが用意されている。

 医療にエンターテイメント性を持ち込んだ,実にコトらしい製品だが,開発のきっかけは,コトが開発した電子スタンプサービス「Digishot」を知った北里大学病院の医師が連絡を取ってきたことだという。

「Occlu-pad」は,2018年1月に第7回「ものづくり日本大賞」の経済産業大臣賞を受賞した
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 「北里大学病院では患者さんに40台ほど貸し出して,親御さんも一緒になって使っていただいています。通院じゃなくてタブレットの貸し出しですから,松葉杖と同じような感じですね。数か月くらい使用すると,かなりの確率で片眼弱視が治るんだそうです。
 Occlu-padのように,視覚だけでなく,聴覚や触覚まで刺激するものを,多感覚を使った訓練というらしいのですが,そのほうが治りが早いと聞きました。インドの国立病院でも治験が始まったそうです」

 窪田氏は,Occlu-padの仕事をしているとき,横井氏が任天堂を辞めた頃に話していたことを思い出すという。

Occlu-padの羊毛刈りアプリ。実際に画面の上でスタンプをバリカンのように動かして毛を刈る
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 「足が痛いのに頑張ってリハビリをやっている男の子を病院で見たようで,かわいそうだ,リハビリ中,その子の周りに東海道五十三次の絵を映し出して,歩くと景色が変わるようにすれば,足の訓練も多少面白くなるんじゃないか……と言っていたんです。
 そのとき自分は『またまた,言ってら』『そんなの理想論』とか思っていました。言うのは簡単,アイデアとしてはいいけれど,それでリハビリが楽しくなるなんてことはないでしょ……と。でも,そこから20年経ったら,楽しくリハビリするということが実現しちゃった」

 窪田氏が横井氏の凄さを本当に知ったのは,このときだったのかもしれない。

 「『本当に参りました,横井さん』と思いました。まさに慧眼,これこそ枯れた技術の水平思考です。
 横井さんは,これがやりたかったんだろうな,とも思いました。山内さんと喧嘩してまで任天堂を離れたのも,これが理由だったんじゃないでしょうか」

横井氏が着用していたコトのジャンパー。仕事場では常にネクタイを締めてこのジャンパーを着ていたという
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ゲームから距離を置く理由


 2000年代の中頃から,コトではゲーム関連業務が少なくなっている。筆者はこの理由を窪田氏に聞いた。

 「私があまりゲームをしない人間だということが大きいと思います。
 大学時代,卒論作成のために泊まり込んだ研究室でゲームをやっていたのが指導教官にばれて,激しく叱られたことがありました。それ以前から,やり始めるとのめり込むタイプだというのは分かっていたので,そこからゲームをプレイしなくなったんです」

 自分でゲームを遠ざけたわけだが,それが後に仕事のうえでちょっとした問題になった。

 「NECでバーチャルボーイのチップを設計するとなったとき,当然ですがゲームの設計用語を覚えないといけなくなりました。
 チップや機能設計の会議では,こういう機能を入れてほしい,という話がよく出ますが,あるとき『Hバイアスです。ドラゴンクエストの「たびのとびら」に入ったときに,ふにゃふにゃってなるあれですよ』って言われて,『はっ? なにそれ』となっちゃったんです。
 でもほかのNEC社員は,なるほどあれか……って全員頷いていたので,こりゃいかんなと思って」

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 確かにドラゴンクエストは,ゲーム業界における“共通語”のようなものかもしれない。

 「次の日はNECの実験室にこもって,ずっとドラゴンクエストをやっていました。分かってはいたけど,これは面白いなぁ……って。
 それとはまた別のときに『モード7』という機能を入れてほしいとも言われたんですが,それは『ファイナルファンタジーで飛空挺に乗ったときみたいに,俯瞰する機能』という説明があったのを覚えています」

 そういったことがあっても,窪田氏はゲームをプレイするようにはならなかった。

 「今はそんなこと思わないですけれど,当時はゲームをプレイするのは大切な人生の時間を浪費すること,ぐらいに思っていたので。
 やるとハマるのは分かっているから,遠ざかっておこう,という気持ちでした」

「パイプロイド」シリーズ(左)と,瀧氏が試作したパイプロイドの製造機械
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 窪田氏がゲームから距離を置く理由には,山内氏と横井氏にまつわるエピソードから受けた影響もあるようだ。

 「これは瀧さんから聞いた話なんですが,昔,山内さんが『パチンコみたいにアドレナリンが出て,中毒性のあるようなもんできんのか』と指令を出したそうなんです。それを横井さんが形にして生まれたのが『ゲーム&ウオッチ』だと。
 パチンコは,言ってみれば遊ぶ度にお金をつぎ込むことでアドレナリンが出ます。でも,『ゲーム&ウオッチ』なら,最初に5800円を払うだけで,同じアドレナリンが出る。
 そう考えると,ゲームって危ういものだなと思うようになったんですよ」

 「中毒性のあるものを出せ」と言うほうにも,それを実現してしまうほうにも,どこか「常識外れ」なものを感じるエピソードだ。窪田氏がゲームに手を出さないのも分かるような気がする。
 『ゲーム&ウオッチ』の成功は,先見の明があった山内氏と,枯れた技術の水平思考を持ち味とする横井氏のコンビだからこそ成し遂げられたのではないか。

 「あの頃は,横井さんが山内さんの意を汲んでアイデアを出し,それを山内さんが認めると現場が一気に商品化に向けて動き出すという良い循環があったそうです。
 そういえば,山内さんは昔『CPUってなんでもできるんやろ,空も飛べるんか?』って言っていたらしいですが,ドローンという形で実現しましたね」

「ゲーム&ウオッチ」
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 現在のコトは,前述のOcclu-pad以外にも,さまざまな分野にエンターテイメント性を持ち込もうとしている。

 「今コトでは,Digishotを使ったいろいろなサービスを考えています。BtoBが多いんですけど。
 例えば,アーティストのコンサートとかプロスポーツの試合で,来場者のスマホに表示されているオンラインチケットを,ゲートのスタッフがDigishotで確認するとか。もぎりのイメージですね。こういうのを,エンターテインメント・スタンピングと称して売っていこうと思っています。
 カルチャースクールなどの出席簿アプリにも使用していますが,これはプラスアルファとして,送客機能も付けているんです。
 今はスマートフォンが一般化したので,スマートフォンベースで何をどうやるか,というのが命題です」



世の中をちょっと面白くするものを


 窪田氏は「役に立たないものを作る」のがエンターテイメントだと言っていたが,コトが現在手がけている製品には“役に立つもの”が多いようだ。

 「ええ,今コトで何をやってるのかって言ったら……役に立つものなんですよ(苦笑)。Occlu-padもそうですし。うちの会社,役に立つものをやってていいのかよ,役に立たないもの作れって言ったやつは誰だって(笑)」

 もちろん,コトや窪田氏が,エンターテイメントの追求をやめてしまったわけではない。

 「例えばデジタル御朱印は,押すときの圧力で色が変わるような仕組みなんですけど,そういう形でエンタメ的な要素を入れたくなっちゃうのが,昔の自分とは違うところかもしれないですね。
 やっぱり感覚が変わってきたと思います。半導体の設計者目線ではなくて,ちょっと驚かしてやろうとか,不思議なもの,クスッと笑えるようなものとかね。そういうのがいいんですよね。
 特定の機能で優位性があるものは,当面はそれだけで満足してもらえるでしょうけど,その先になったとき,どんな形でエンターテイメントを入れてやろうかなって,ついつい考えるようになってしまったんです。
 そういうことをやっていると,世の中がちょっと面白くなっていくかもね……という気がするんですよ。だから役に立つことばっかりやってるんです(笑)」

Digishotが取り上げられた2018年6月22日付けの日経MJ
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「枯れた技術の水平思考」の先にあるもの


横井氏が生前に愛用していた時計
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 1996年に横井氏が設立し,瀧氏が代表取締役を継承したコトには,窪田氏の代になっても,横井氏と瀧氏の残した任天堂的の精神が受け継がれているように感じた。

 「今まで紹介したものの仕組みは,基本的にコンピュータ間のデータ転送なんです。それを例えばスタンプというメタファー(隠喩)を使ってやると,ものすごく直感的で分かりやすくなる。
 メタファーは,スタンプではなく,スポイトだっていいんです。そういう,ほかと違うことをやっているのがエンターテイメント的で面白い。それがコトの事業の中心ですね」

 そう言って窪田氏は,新たに「AirWitch」という商品を紹介してくれた。

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 「技術的には『空中結像』と言うんですが,スマートフォンの画面に表示されているものを,空中に映し出すキットです。
 スクリーンレスなので,実体物と映像を融合させることもできます」

 例えば,AirWitchとロウソクを組み合わせ,炎の部分だけスマホの映像にすると,よりリアルさが増すという仕掛けだ。さらに,スマートフォンのセンサーを利用すれば「息を吹きかけると消える」といったこともできるという。

 「一種のVRですね。このあたりは,『枯れた技術』ではないんですけど(笑)。
 こういうものを開発するとき,瀧さんがよく『部品をよく知ること,そのコストを把握することが重要だ』と言っていました。それをせずに安くて良い製品はできないということです。
 言うなれば『枯れた技術の水平思考の先』のあるものがそれなんでしょうね」


過去だけではなく今を


 窪田氏から「取材になるかどうか分かりませんが」と言われた日の後も取材を重ねたため,この記事ができあがるまでにはずいぶんと時間がかかってしまった。

 取材を重ねる中で,わずかではあったが,瀧氏にも話を聞く機会を得たので,最後に氏の言葉を紹介しておきたい。

 「(昔のことは)もう,だんだんよく分からなくなっているし,忘れてしまったことが多いです。横井さんがああしたかったんだろう,こうしかたったんだろうというのは,故人になってしまった今,すべて推量にすぎません。
 横井さんが亡くなったときに,まわりの人達は『これでコトは終わった』と言っていました。でも残された社員たちが,作れるかどうか分からないという不安を抱えながら,地道に仕事を続けた結果,いろいろなものができたんです。
 過去の話を美談にするよりも,今のコトを支えるスタッフや商品にスポットが当たることのほうが大事なんですよ」

AirWitchのチームリーダー 高橋 潤氏
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 紙のパイプを折るときのちょっとした音も心地よい「パイプロイド」,まだ枯れてはいない技術を活用した「AirWitch」,スマートフォンやタブレットありきで発案された「Digishot」。窪田氏と若いスタッフが生み出したコトの商品は,横井氏が好んだものとはまた別の世界観を感じさせる。
 だが,今回の取材で,これらの製品は横井氏や瀧氏の見ていた先にあるものではないかと感じた。会社は人でできていて,人も会社とともにある。そんな思いを新たにした。

窪田氏と筆者(右)
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著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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