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[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート
消えた「Best Writing Award」
ナラティブという言葉が注目されるようになったのは,GDC 2013でこれがバズワードの1つになったから,という側面がある。実のところ,GDC 2012ではすでにこの兆候が見られており,GDC 2012では前年まであった「Best Writing Award」(最優秀脚本賞)がなくなり,「Besy Narrative Award」に置き換わっていた。
日本では,ナラティブという言葉に馴染みはないが,簗瀨氏によれば「ナラティブという言葉で定義されていなかっただけで,日本のゲームにおいてもナラティブという概念は昔からたくさん使われてきた」のだという。しかし,いままで明確な用語がなかったところに,新しくナラティブという言葉が入ってきたため,「いったいなんだこれは」という混乱(場合によっては拒否反応)が生じているのだそうだ。
そう言われると,日本のゲームに昔からあって,世界のゲーム開発者が昨今急に注目し始めた「ナラティブ」の正体が,いっそう気になるというものだ。簗瀨氏は「ナラティブなゲームというものの定義はあまり明確ではない」が,「このゲームはナラティブだ」とされるゲームはいくつかあると語る。というわけで,まずはこの実例を見ていくことから講演はスタートした。
人それぞれに思い出ができるゲーム
最初に紹介されたのは「風ノ旅ビト」だ。一説には300万ダウンロードを超えたとされるこの作品をプレイした4Gamer読者も多いと思われるが,本作は一見すると「雰囲気がいい(だけの)ゲーム」,いわゆる“雰囲気ゲー”に見える。
が,実際にプレイしたプレイヤーは,風ノ旅ビトが見た目よりもずっと深いゲームであることに気付く。印象的なセリフがあるわけでもなく,それどころかプレイヤーが操るキャラクターが何者なのかすら説明されないが,数時間プレイしただけで非常に長い旅をしたような体験が可能となる作品だ。
続いて紹介された「FTL: Faster Than Light」はSFモチーフの作品で,プレイヤーは宇宙船で宇宙を旅しながら,さまざまなトラブルに巻き込まれることになる。ゲームのポイントとしては,宇宙船同士の戦闘になった場合,船内の状況もつぶさに表示される(そして表示された問題を解決する必要がある)ということだ。
FTLでは,船が被弾して火災が発生したり,エアロックから敵が侵入してきたりなど,そこで発生するイベントはランダムで生成される。だが,例えば難破船から生存者を救助し,クルーに迎え入れたものの,旅の途中で発生した戦闘で壮絶な戦死を遂げてしまうといった,「ランダムだからこそ起きる濃密な体験」が得られる作品であると簗瀨氏は分析する。
FTLのような作品は日本にも昔からあった。簗瀨氏はその代表例として「風来のシレン」を挙げる。同作はいわゆるローグライク,つまりランダムに生成されるダンジョンをひたすら潜っていく作品であり,多くのプレイヤーが会社員や学生という己の社会的地位を危うくする勢いでプレイしていた。
風来のシレンもまた,万全の状態から操作ミス1つでとんでもないことになったり,貴重な食料が突然腐ってしまったり,あるいはたまたま強力なアイテムが手に入ったりと,「人それぞれに思い出ができるゲーム」であると簗瀨氏は語った。
キャラクターの体験を,自分の体験として認識
では,ランダムなゲームやダンジョンハックな作品がナラティブなのかというと,必ずしもそうではない。ここで簗瀨氏が例に出したのが「ドラゴンクエスト」(以下,ドラクエ)だ。
初期のドラクエは「ストーリーはあるが,ストーリーラインは非常に希薄」であり,設定も最低限しかない。だがここには「ドラクエ方式」とでも言うべき,大きな特徴があると簗瀨氏は指摘する。
昨今のゲームであれば,しばしば「プレイヤーが次になすべきこと」は,「お前が○○を手に入れるためには隣の街まで行く必要があって,隣の街に行くための橋が壊れていて,その橋を直すための職人が東の洞窟にいるので,東の洞窟に行って窮地に陥っている職人を助けて橋を直してから向こうに行け」といった形で懇切丁寧に提示され,そこにプレイヤーが何かを考える余地はない。
ところがドラクエの場合はこの逆で,「『次に○○をやれ』という答えを決して言わない」という。「街があるよ」「この街には△△があるよ」「となり町にいく橋は壊れているよ」といった具合に,情報はすべて別々に与えられ,プレイヤーは次にどうすればいいかを自分で考えねばならないのだ。
この「自分で考える」というプロセスによって生まれる解決は,「与えられた解決ではなく,自分の解決になる」のだと簗瀨氏は語った。
氏の言うドラクエ方式には,ほかにも特徴がある。例えば「やることが複数ある」というのも,そのひとつだ。これには「あまぐものつえ」と「たいようのいし」を組み合わせることで「にじのしずく」を手に入れる,といったケースが相当する。
普通にプレイしていると,レベルデザインの関係上,「あまぐものつえ」と「たいようのいし」を獲得する順番は決まってくるが,とくに「“あまぐものつえ”を手に入れることで,“たいようのいし”が拾えるようになる」というフラグ管理が設定されているわけではない。プレイヤーは,どんな順番で成すべきことを成しても構わないわけだ。
このように,結果的には一緒であっても,その順番を選べることによって,「自分で決断して,自分で解決する,自分のストーリーになる。これがドラクエの良さだ」と簗瀨氏は解釈しているという。
ゲームのキャラクターの体験を,自分の体験として認識するようになる作品として,簗瀨氏はドラクエ以外に「ときめきメモリアル」を挙げた。この作品も,人によって起こることは違い,その解釈も人によって異なるのだ。
なんでも簗瀨氏は学生時代,「この手のゲームをまったく遊んだことがない先輩を部屋に缶詰にして,ひたすらときメモを遊んでもらった」ことがあるらしい。その先輩は,お気に入りの相手と無事付き合い始めたのだが,その後,相手の学業の成績が下がってしまった。この状況を見た先輩は「彼女の成績が下がったのは自分のせいではないか」と思い悩んだという。つまり「キャラクターの体験を,自分の体験として認識」してしまったというわけだ。
コンピュータゲーム黎明期のナラティブ
コンピュータゲーム黎明期の古いゲームにおいては,ナラティブは成立していたのだろうか。
簗瀨氏は「パックマン」を事例として取り上げた。パックマンは,「地球を救うために某科学者が作った装置を使って地底に潜ってエネルギー源を集め,その過程において,地球に攻めてくる凶悪なモンスターの攻撃をかわしながら,スリリングな体験をする」というゲームではなく,むしろ,パックマンやモンスターが何者で,何を食べていて,彼らがさまよう迷路は何なのかといった設定は,プレイヤーに与えられない。この状況では,「コミケでパックマン本を書いている人であればともかく,普通の人にとって,これを自分の体験として受け止めるのは難しい」ので,ナラティブを感じられないとのことだ。ただ「アメリカにはパックマンをアニメにしてテレビで放映した歴史もある」と補足し,「おそらくこれはパックマンに対する親しみが我々より深かったのであろう」と,アメリカ人の妄想力に敬意を表していた。
パックマンだけでなく,「スペースインベーダー」や「ギャラクシアン」も,物語世界に入り込むヒントは少なかった。そんな中で,颯爽と登場したのが「ゼビウス」である。
ゼビウスは,ゲーム中で設定が深く語られることはないが,予備知識としてプレイヤーに与えられるため,プレイヤーは「何か重いものを背負って戦っている」感覚を得られるようになり,ナラティブ的な側面が強まったそうだ。
ただ,実のところゼビウスには,最初から背景設定があったわけではないという。遠藤氏によると,「ゲームを作っているうちに,敵は地球にどうやって攻めてきているのか,敵の正義は何なのか,そういうことが気になったので作った」そうだ。簗瀨氏に「そういう設定を作っちゃうっていうのは,相当“厨二”ですよね」と指摘された遠藤氏は,「否定しません」と会場を沸かせていた。
たくさん語れば,それでいい?
背景設定によって,プレイヤーが「キャラクターの体験を,自分の体験として認識できるようになる」ことがあるというのが,ゼビウスにおけるナラティブである。だが簗瀨氏は,「背景設定があればそれでいいかと言えば,そうではない」と語り,深い背景世界や重厚な物語を持つ作品の代表的な例として「ファイナルファンタジー」を挙げた。
氏によれば「ファイナルファンタジーは,クオリティの高いCGと物語を重ねていくことによって,より深いゲームを表現しようとする試み」を行っているゲームだが,「例えばライトニングの活躍を自分のものとして体験できるかというと,難しい」と言う。
その理由として,まずキャラクターの感情表現が豊かであるがゆえに,それらの感情や判断が「自分のもの」とズレてしまうことを挙げた。ライトニングが何かをするたびに,「自分だったらこういう決断はしない,こちらを選ぶ」という思いがプレイヤーに蓄積されてしまうというわけだ。
またファイナルファンタジーと同じ方法論を採っている作品として,氏は「メタルギア・ソリッド」を挙げた。この作品もまた,プレイヤーが自分自身をソリッド・スネークであると感じながらプレイすることは難しいが,「重たいものを背負って苛酷な戦いをする経験」は可能である。とはいえ,これらは「ストーリー」の体験であり,ナラティブではないと簗瀨氏は指摘する。
さて,どちらの作品も,CG技術の進歩にあわせて物語が大きくなってきたという経緯がある。一方で,物語だけが大きくなってきた作品もあるとして,氏は「ひぐらしのなく頃に」を例に示した。
ひぐらしのなく頃にの表現の中心はテキストであり,選択肢は少ないが,それでも深くゲーム世界に入り込んでいける。遠藤氏は「選択肢があまりないゲームなのに,プレイした知り合いから『久しぶりにゲームらしいゲームを遊んだ』という感想を聞いて,その当時は不思議に思っていた」そうだ。こういった感覚が得られる理由がどこにあるのかというと,同作ではストーリーというより,謎が提示されるからだと氏は分析する。人間は謎に対して無意識的に仮説を立てるので,プレイを進めるうちに,その仮説が正しいのか間違っているのかが気になり,ゲームにのめり込んでいくというわけだ。
ただ,同作の主人公に対して,「あれは俺だ!」と自己を投影できる人は,それほど多くないだろうとも氏は述べる。実際に会場で挙手を募ったところ,「自己投影できる」と答えた人はいなかった。
また謎が次々に出てくるとスタイルのゲームとしては,さまざまな人の視点から謎を集めることで解決していく「街」も紹介された。街は視点のザッピングを巧みに利用した作品で,選択肢も多く,アドベンチャーゲーム(ないしサウンドノベル)のひとつの到達点であると評価する人は多い。
が,これもまたナラティブかとなると,弱い部分がある。プレイヤーは自分が判断した選択肢を選んではいるものの,「プレイヤーは何者なのかという,統一された視点」に欠けているのだ。あえて言えば「プレイヤーは読み手」であって,街という作品の登場人物ではない。
オープンすぎるオープンワールド
しかしながら,テキスト中心のゲームにおいても,プレイヤーが主人公として行動し,物語の中に入っていく作品は確かに存在した。簗瀨氏はこの例として,ミステリー・アドベンチャーゲーム「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」を挙げる。
当時のアドベンチャーゲームは,「この場面で何をするか」を自然言語で入力していた(当時のPCは,性能的にほとんど言語解析ができなかったので,事実上「単語探しゲーム」の側面もあった)のに対し,オホーツクに消ゆは,選択肢から行動を決定するようにしたというのが大きなポイントだ。
オホーツクに消ゆは,今にして見れば,貧弱なグラフィックとテキストによる選択肢表示が用意された,リソースの小さなゲームである。だが,当時のゲームで「移動して」「何かをする」という組み合わせが生み出す自由度は高く,情報を得ていくにしたがって行動範囲(世界)が広がるというのも,納得できるものだったのだ。
この発想を現代のゲームにストレートに持ってくると,「シェンムー」や「グランド・セフト・オート」といった,いわゆるオープンワールドの作品になる。
オープンワールドの,とくにフリーローミングと呼ばれるタイプのゲームでは,プレイヤーは広い世界を自由に移動することが可能だ。事件やストーリーと関係のない場所にも行けるし,どんな場所であれ,プレイヤーがやりたいと思ったことをできる。キャラクターの行動は,常にプレイヤーの選択の結果として成り立つので,その行動に理不尽さもあまり感じない。
だが,それらのタイトルがナラティブかと言うと,これも怪しいという。例えばグランド・セフト・オートの物語は,プレイヤーの内側にあまり残らないというのだ。どちらかと言うと「街中を車でぶっ飛ばして銀行強盗や人殺しを行う。その,自分が好き勝手した記憶が,物語よりも大きく残る」のである。この理由について氏は「自由さが物語をはるかに凌駕してしまっている。グランド・セフト・オートにおいて,プレイヤーはプレイヤーとして好き勝手するのが面白いのであって,その世界の人間にはならない」からだと指摘する。
必要最低限の情報
古いゲーム(しかも多くは相当古い)の話はさておき,現代の日本のゲームでナラティブをうまく扱えている作品はあるのだろうか。簗瀨氏は世界的にも評価が高い作品として,「Demon's Souls」と「DARK SOULS」を挙げる。
これらの作品は,RPGとしてキャラクターを鍛える要素があるが,難度が高く,繰り返しのプレイで同じくらいプレイヤーも鍛えられるゲームになっている。また,高難度ゲームにおいて頻繁に発生する「キャラクターの死」について,死んだキャラクターが戻ってくる,いわゆる「死んでリセット」がゲームの世界観に組み込まれている。そのため,クリアを目指して何回もトライするプレイヤーは,まさに作中のキャラクターであり,だからこそ「鬼のような難度でも許せる」のである。
無論その「鬼のような難度」に挫折するプレイヤーも少なくはないが,そうやって挫折してしまっているキャラクターが,実際に作品世界中に存在するというのも面白い演出だ。
Demon's SoulsとDARK SOULSには物語もあるし,世界観も重厚であるが,これらによって「自分で物語を作る」ゲームになっているというのが,氏の分析である。
もうひとつ,「ワンダと巨像」も優れたナラティブを有する作品だという。
DARK SOULSに比べると,ワンダと巨像はどちらかと言えば淡白なゲームだ。さみしげな世界観や迫力ある敵といったものはあるが,プレイヤーに提示されているものは少ない。ワンダと巨像では,最初に主人公が死んだ女性の復活を目指して巨像と戦うことが示されるが,その女性が誰で,主人公は何者なのかといったことも語られない。
しかしながら,ワンダと巨像は,あえて「語らない」ことで想像の余地を大いに残している。「想像の余地が大きいから,ゲームがプレイヤーの想像を裏切らない。裏切るだけの情報がない」のである。
結果として,プレイヤーは主人公の活躍を自分の体験として受け入れられる。「巨大な敵と戦う」という体験が,物語が欲しいという気持ちを凌駕するというのだ。
DARK SOULSやワンダと巨像には,ファイナルファンタジーのような濃密な世界観や物語はないし,グランド・セフト・オートのようなオープンな世界もない。しかし,それでもプレイヤーとキャラクターが一致する感覚は非常に強い。重要なのは,「それを一致させるために必要最小限の情報を用意する」こと,そして「プレイヤーを裏切らない」ことなのだ。
インディーズ開発者への福音として
この「必要最小限の情報」が,最小でどれくらいまで小さくできるかという点について,簗瀨氏はGDCでも話題になったゲーム「Thomas was alone」を挙げる。
この作品は,遠藤氏が「MSXでできるね」と評するほど,簡素という言葉では足りないぐらい簡素なゲームで,登場キャラクターはすべて色つきの四角形でしかない。この四角形のキャラクターがクリアしていくステージも,ほぼ四角形だけで構成されたステージである。
しかし,極めて簡素なゲーム画面のThomas was aloneではあるが,プレイしていると,この色つきの四角形にキャラクター性を感じてくる。実際海外には,同作の擬人化コンテンツがあるのだという。
こういったミニマムな表現であっても,ナラティブがゲームの体験を深めるという事実は,制作予算に限りのあるインディーズ開発者にとって大きな意味がある。
リアリティのある世界で脚本を重厚にすると,その表現にもリアリティを求められ,非常にコストがかかる。かといってすべてを文字に頼ろうとすると,表現としては面白いものが作れるが,プレイヤーが得られる体験に限界が生まれてしまう。
この状況において,ミニマムな表現でも深いゲーム体験を与えることができる(「ミニマムでなくてはならない」という意味ではなく,リソースのバランスが重要という意味)技術として,ナラティブに注目が集まるのは,自明と言えるだろう。
簗瀨氏は「GDCではナラティブサミットが開かれ,もともと彼らが持っていたノウハウを互いに放出しあうことで,知見をさらに深めている。日本も負けていられない」と語った。
結局ナラティブって何?
ここまで紹介してきた事例を踏まえて,簗瀨氏はナラティブをどう定義するのだろうか。
氏は「ストーリーには始まりと終わり,目的地と経由点が決まっていて,何回なぞっても,誰がなぞっても,同じことが起きる」とする。一方でナラティブは「時系列が設定されておらず,自分の経験や出来事を通じて語る。またそこには意外性と偶然性がある」と指摘した。なお重要な補足として,この意外性と偶然性は「受け手にとっての意外性」であって,作り手はこれをコントロールしても構わないと語った。
そのうえで,「ゲームは体験である。この体験が経験としてプレイヤーに刻み込まれるとき,そこにナラティブがあった,と言う」とした。
だが簗瀨氏は,ナラティブの定義は難しいとも述べる。なぜなら「ナラティブはその人の頭の中にしかない。また,結果からしか問われない。ナラティブがあるかどうかは,その人のバックグラウンドや文化にも依存する」からだ。氏によれば,日本のゲームは昔からナラティブの技術を有してきたが,それはあくまでも「プレイヤーが日本人であるとき」に発揮されるナラティブであり,それゆえ簡単に「日本はナラティブ先進国である」とは言えなかったとのことだ。
とはいえ,定義が定まったのであれば,それを実際にゲームに実装するにはどうしたらいいのだろう。簗瀨氏は「ふわっとした答えだが」と断りつつ,「プレイヤーの期待にちょうど答える量の情報を与える」ことが重要であると説く。
実のところ,ゲームが一本道だったらそこにナラティブはない,ということにはならないと氏は語る。「こういうことがあったら,みんなこうするよね」というコンセンサスが発生しうるのであれば,ゲームは一本道でも構わないのだ。だがゲームが売れる(売れてほしい)本数を考えると,そんなコンセンサスが生まれる可能性は低く,そこに相応の選択肢を用意せざるを得ない。
かといって,ここで「多ければいいんでしょ」とばかりに選択肢を増やしすぎれば,プレイヤーは「ゲームの主人公」としては振る舞えなくなり,「プレイヤー」として世界に関与するようになる。よって,情報を増やすときは「ちょうどよい量の情報(背景設定であったり,そのゲームの物理法則であったり)」を意識しなければならない。
また,逆に「プレイヤーの期待を限定」することもできるという。氏はこの例として戦争をテーマにしたゲームを挙げる。リアリティある戦争ゲームは,戦場で起きることや,戦場というシチュエーションに期待することが限られているので,必要になる「ちょうどよい量の情報」を減らすことが可能というわけだ。
まとめとして,遠藤氏は「ナラティブは日本においても暗黙知として存在してきた」という。そしてナラティブが活用されたゲームを,多くのデザイナーが原体験として有しているのも間違いない。であれば,「ナラティブをゲームに上手く利用することで,より深い体験を与えられるゲームを作っていこう」という指針は,現実的であるし,また効果的でもあるだろう。
また若干余談気味になるが,講演においては簗瀨氏の言う「ドラクエ方式」,つまり「複数のストーリーラインがあって,そのどれから手を付けてもいい」という方式は,GDCにおいて「The Witcher」の開発者が「メルセデスメソッド」というネーミングで発表しているという。
これは「メルセデスメソッドとして提唱されるずっと前からドラクエは実践していた」という本家元祖論争に留まらず,「名前を与えて世に問う」ことの重要性を示唆している。日本で言えばサイトウ教授の「ゲームニクス」がそうであるように,「名付けてしまえば,そういうものだと認識される」のであるし,それに対して議論を共有し,深めることもできる。
GDCでは,すでにナラティブを作る方法を定義し,世に発表し,それを共有することで,互いの技術を深めている。遠藤氏は「日本においてもCEDECがそういう場であり続けてほしい」と述べていたが,その言葉のとおり,これからのCEDECにも期待していきたい。
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