レビュー
「最近のコンテンツはお粥化している」――「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」でなぜこんなにも感動するのか。原作者・福井晴敏氏の発言を踏まえて考えてみた
今になって振り返れば,それが思春期的な反目精神であったり,あるいは自身の物語への理解力の無さゆえの事象だったと思い至るわけだが,齢30を超えたあたりから,逆に自分自身が“とにかく泣き脆くなっている”ことに気がつく。
そんな折,説明不要の国民的アニメ「ガンダム」シリーズの最新作である「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン) episode3『ラプラスの亡霊』」が,イベント上映/配信された。ぷちガンオタを自称する筆者も,早速PlayStation 3でダウンロード&視聴してみたのだが……
なんかもう,感動して言葉がないのである。
「機動戦士ガンダム UC(ユニコーン)」公式サイト
これは,本作の第一話を見た時から感じていたことだが,「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」(以下,ガンダムUC)のこの面白さには,何か特別なものがあるように思う。単に作画のクオリティが凄いであるとか,筆者もドンピシャの30〜40代をメインターゲットに据えた作品だとか,そういう単純な話だけでは片付けられない「何か」が。
新たに公開されたepisode 3を視聴して,改めてそのことを再確認したわけだが,本編が終了した後に特典として収録されていた原作者・福井晴敏氏のインタビューを見て,その「何か」が少し分かったような気がした。
このインタビューを見ながら,コンテンツとは,あるいはコンテンツ産業とはどうあるべきものなんだろうかと,何やら考えさせられてしまった。
というわけで,今回は,昨年に引き続き,またもアニメ「機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)」を取り上げてみたい。もう「一応,ゲームにも関連してるから」だとか,そういう無粋なことを言うつもりはない。ガンダムUCについて語りながら,コンテンツや,ひいては昨今のゲーム産業について考察を加えてみたいと思う。
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※以下の文章には,物語上のネタバレが含まれます。ご注意ください。
改めてガンダムUCの魅力を語ろう
以前筆者が書いた「こちら」の記事では,ガンダムUCというよりはどちらかというと,ガンダムという世界観の魅力について触れたわけだが,今回は,もう少しガンダムUCに絞って進めていく。
まずその魅力は,大きく分けて二つあると考えられる。
一つめは,言うまでもなくその映像作品としてのクオリティの高さだ。現在のアニメ産業の粋を集めたとさえ思える作画は素晴らしい完成度だし,それを盛り上げる澤野弘之氏のサウンドも珠玉の逸品。躍動感あるモビルスーツの戦闘描写は,「機動戦士ガンダム 0083」や「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」のそれに匹敵するか,それを超えようかというほどである。
とくに今回公開されたepisode 3は,作品の見せ場とも言うべき戦闘シーンが,物語の前半と後半のそれぞれで用意されており,その両方が,近年のロボットアニメの中でも特筆に値する出来映えなのが凄いところ。
いよいよその真価を見せ始めた「ユニコーンガンダム」と,それに立ち向かうモビルスーツ「クシャトリヤ」の戦いは,間違いなくガンダムシリーズ全体の中でも屈指の名場面として語り継がれるべきものだし,後半の地球の大気圏へ落下しながらの戦闘描写も,ファーストガンダムのオマージュでありながら,“新世代のガンダム”にふさわしい,その演出と映像の迫力には思わず息をのむ。
一人の一ガンダムファンとして言うならば,「ドライセン」や「ドラッツェ」といった旧型のモビルスーツが登場するあたりにも反応せざるを得ないわけだが,そういった旧型が登場してくる“物語のバックボーン”に哀愁を感じずにはいられないのも,ガンダムのガンダムたるゆえんであり,また良さでもあろう。
抑圧され搾取され続けた人々(※スペースノイド)が,打ちのめされ追い込まれながらも,まだ世界の大きな流れに抗っている。そうした人々の姿を投影するかのような旧型モビルスーツ達の“勇姿”は,それだけで実に多くのことを物語っているからだ。
これは個人的な意見ではあるが,ガンダムUCという作品の楽しみの一つは,雑魚モビルスーツのやられ様にあると思う。先に挙げた旧型モビルスーツが,敵方の量産機である「ギラ・ズ−ル」が,あるいは味方の「ジェガン」が散っていく描写の細やかさには,それこそアニメーターの情熱のようなものを感じるし,その散り様が本当に多種多様で懲りに凝っているのである。
ともかく,映像のクオリティに関していえば,今作は,現時点で最新かつ最高傑作と言える内容だ。全6話が予定されているガンダムUCだが,話半ばの3話めでこんなに飛ばしてしまって大丈夫か? と心配になるくらいである。
社会派作家・福井晴敏氏が描くガンダム
先ほど,本作の魅力は大きく分けて二つあると述べたが,その二つめは,「亡国のイージス」や「終戦のローレライ」などで知られる小説家・福井晴敏氏が描く,物語の緻密さと骨太さである。
そもそもガンダムUCは,映像化や商品化を前提とした“新たなガンダムプロジェクト”として,雑誌「ガンダム エース」で長年連載されていた小説を元としている。また,本作はいわゆるスピンオフでもアナザーストーリーでもなく,アムロやシャアが活躍した「宇宙世紀シリーズ」の正統な後継作品という位置づけで,満を持して展開されているのが大きな特徴だ。
本作の面白いところはそれだけではない。
いまなお「子供向け」とカテゴライズされがちなアニメというジャンル(まぁ元は小説だが)にあって,本作が真正面から30〜40歳という「ガンダム世代」に向けて物語を紡いでいる点も,ガンダムUCという作品を語るうえで見逃せないポイントである。
かなりのネタバレになるので,あまり細かい説明はできないのだが,ガンダムUCは,少年少女に向けたアニメらしい「子供と大人の対立」や「少年達の成長群像劇」といった話だけでは済まされない,非常に重々しいいくつものテーマを根底に据えている。
物語の中核に「戦争」というテーマがある点は変わらないのだが,その火種とも言える差別や貧困,そしてテロリズム……。これらがストーリーに絡み,戦争に至る経過の描写は,そもそも“重い”話が多い宇宙世紀モノにあってなお,これまでのシリーズの中でも随一と言える。
もちろん,宇宙世紀シリーズ自体,そうした政治劇や人間ドラマに焦点を当てた話が中心であり,そのある種の“重さ”や“小難しさ”が,ガンダムという作品/世界観の魅力であるのは,今さら指摘するまでもない。主役/脇役を問わず,登場するキャラクター達はそれぞれの思惑で動き,決断をするし,それにまつわるドラマが描かれていくのが,ガンダムという世界観の面白さでもある。
ただ,恥ずかしながら筆者を例に挙げれば,子供の頃,作中で展開される様々なドラマについては,いまいち理解していなかったと思う。登場するモビルスーツや分かりやすいキャラクター像に魅力を感じこそすれ,アムロやシャアを始めとした登場人物達が何を考えながら行動しているのか,あるいは連邦やジオン,アクシズといった勢力がそれぞれ「どういう立場」であるのか。その背景をちゃんと理解し始めたのは,おそらくは高校生くらいの頃であっただろうか。
要するにガンダムという作品は,筆者を含む子供(ちなみに筆者はZ〜ZZ世代だが)には少々難しい内容(※)だった。
一方,筆者が本格的にガンダムの魅力に取り憑かれていったのは,メカニカルな細かい設定などを含めた,世界観や物語の背景に目を向けてからであったし,同じようなファンも少なくないはずだ。であるならば,商業的なエンターテイメント作品において,そうした重さや小難しさというものは,どう扱われるべきものなのだろうか。
いや,そもそも娯楽目的のエンターテイメント作品において,“噛み砕かないと理解できない”ような難解なストーリーや舞台設定というのは,本当に必要な要素なのだろうか?
※企画そのものとしては,元々ハイティーン以上を狙った作品ではあったようだ
福井氏が警鐘を鳴らす「コンテンツのお粥化」とは
冒頭で,福井氏が警鐘を鳴らす「コンテンツのお粥化」について簡単に触れた。
これは,PlayStation Storeでの配信に特典として収録されていたインタビューの中で語られていたキーワードなのだが,簡単に言えば,バブル崩壊以降の「モノが売れない」環境の中,売れるための努力をしていった結果,安易な作品が増えているのではないか。そして受け手側も,コンテンツに対する読解力,理解力が低下しているのではないか?という話である。
福井氏は,インタビュー中で以下のような発言をしている。
バブル崩壊以降,当然モノは売れなくなってきます。で,そういう中で何をするかというと,やっぱり売れるようにしていかなければいけないわけです。売れるようにするために何をするかというと,「飲み込みやすく」するんですね。
つまり,今までだったらその,テーブルがあってご飯が並んでいる状態があればよかったんですが,美味しそうな料理が並んでいるだけじゃお客さんが来ない。そうなると,「もう噛まないでもいいですよ」というくらいの,いわばエキスのようなお粥状のものを,どれからどう食べようかな? ということさえも考えさせないで,とにかく相手の口元まで持っていってしまうんです。
凄い砕けた言い方をしてしまうと,“バカみたいな話”ばかりが多くなってしまったんですよ。
ちゃんとした大人なら聞く価値もないっていうようなもの,これが今,「若い子達はこういうものが好きなんだよ」という話でもって大量に作られて,若い子達も選択能力がないままに,差し出されたお粥を飲み込んでしまっている。
で,それに慣れてしまっているものだから,たまにちゃんとしたお話,つまり「ちゃんとした食べ物」が来ても,噛み方が分からない,飲み込み方が分からないという風になってしまう。
福井氏は,ガンダムという世界観を使うことで「ようやくお話が作れる」と思ったそうだ。「咀嚼(そしゃく)しなければ,完全には吸収できないお話」を,ガンダムだったら作れるのではないかと考えたのだという。つまり,ガンダムという看板を掲げることで,一定数のお客さんが“堅い食べ物”でも向き合ってくれる。逆を言えば,今はそうした土台がないと,内容の良し悪しを問わず,そもそも「堅い物は食べてもらえない」という話でもある。
むろん,こういった問題意識は,ややもすれば,どんな時代でもわき起こる「最近の若いモンは」という話に聞こえかねない危険性がある。明治時代の小説が,昭和の始めでは映画が,昭和中頃ではテレビが,そして近年では,漫画やアニメ,ゲームなどが「低俗な大衆娯楽」という見方をされ,軽視されてきた。
では,福井氏が語る「コンテンツのお粥化」とは,そうした単純な世代論で済まされる話なのだろうか。
有料よりも無料のほうが手軽なのは確かだし,そこにマーケティング的な合理性があるというのも,業界人の端くれとして理解はできる。けれど,「面白ければ売れる」が幻想であることが,業界人のみならず,いまやプレイヤーの間でさえ常識になってしまった状況は,マーケットが進化し洗練された結果と言えるのだろうか。
「難しいゲームはマニア向けで先細り! だから手軽に,とにかく簡単に」という意見は良く聞く。確かに「あまりに内輪受け」すぎる内容は,縮小再生産にしかならないと常々思う。
けれど,苦労があってはじめて,クリアした時の喜びがあるのも確かだ。
かなり古い例えで申し訳ないのだが,「法隆寺に行きたければ,汽車を降りて遠くから田舎道を歩いて行くべきだ」という話がある。どういう意味かというと,歩いていくと松林の向こうに次第に建物のてっぺんが見えて来て,次第に全容が見えたり,到達した時の喜びが違うという話で,つまりは,自分の足で訪ねていくからこそ味わえる体験や,苦労して歩いていくからこそ味わえる感動がある,ということだ。これって,ゲームはもちろん,いろいろな事に言える話なんじゃないだろうか。
自分の立つ土俵から見渡してみても,おそらく福井氏の指摘する「コンテンツのお粥化」は,世代論だけでは済まされない,近年のコンテンツ業界で広く実際に起きている現象である。アニメや映画など,他のコンテンツについてはあまり強く言える立場ではないのだが,少なくとも昨今のゲーム市場に関しては,間違いなく「お粥化」していると感じる。
誤解しないでほしいのだが,別に「お粥的なコンテンツ」がすべて駄目だという話ではない。気軽に楽しめるコンテンツは必要だし,下ネタやくだらないギャグで嫌なことを忘れたい時だってある。可愛いアイドルや萌えキャラに心和ませることもあるだろう。問題なのは,単なるビジネス的な手法が先鋭化された結果として,「そればっかり」になってしまうという点である。
柔らかいものは確かに食べやすい。でも,歯応えがあるからこそ美味しい食べ物だってあるのだ。そういう食べ物も食べたいじゃないか。
咀嚼する必要があるからこそ出る味(面白さ)がある
話をガンダムUCに戻そう。
福井氏は,お粥化について苦言を呈した後で,「ちゃんと咀嚼して飲み込んで,受け手の栄養になるお話を届けたい」と言う。では,噛んだからこそ出る味,あるいは“受け手の栄養になるコンテンツ”とは一体なんだろうか。そして本作において,それはどういった部分になるのだろうか。
というのも,語弊を恐れずに言わせてもらえば,ガンダムUCは,現実社会にある事象や問題を「ガンダム(=宇宙世紀)」という架空の世界に置き換えて表現している作品であり,そこをどう解釈するかで見方が大きく変わる内容となっているからだ。登場するキャラクターの言動や発生する事件からは,現代社会で起きている事象や問題が透けて見えるし,嫌らしい言い方をすれば,“元ネタ”が連想できてしまうシーンも少なくはない。
要するに,実際に起きている問題をガンダムという世界の出来事に置き換えて表現することで,物事を分かりやすく抽象化し,より多くの人に伝えようとしているのである。
言うまでもないが,フィクションの世界に現代社会を投影させる手法は,何も別に新しいやり口というわけではない。例えば「風の谷のナウシカ」が自然と人間の関係性について語ったり,チャールズ・チャップリンが映画の中で資本主義やヒトラーを風刺して見せたように。フィクション(あるいはファンタジー)に置き換えることで,テーマやメッセージを分かりやすく伝えようとしている作品は少なくなくないのだ。
ガンダムからは少し話が離れるが,例えば,筆者が大好きなSFシリーズ「スタートレック」でも,現代社会におけるエネルギー問題や,そこに根ざした国家間の軋轢/紛争をテーマに据えた作品(「スタートレック6 未知の世界」)があった。スタートレックという舞台を使って,敵対する陣営同士が和解する難しさや,相手側の視点に立って考えることの困難さを表現していたのだ。
その作品が制作された当時(※1991年のアメリカを指す)は,ソビエト崩壊や湾岸戦争など,世情がとても不安定な時代。監督を務めたニコラス・マイヤー氏は,スタートレックというフィルタを通して,人々が現実世界で直面している問題を正面から伝えようとしたのである。
マイヤー氏は,同作についてのインタビューで,「現実の問題を“現実のモノ”として取り扱うのは非常に難しい。商業的な問題というだけではなく,人々は,どうしても偏見を持ったまま物事を捉えてしまうからだ。でも,スタートレックという世界を通せば,視聴者は,投げられたメッセージを偏見や先入観を持たずに受け止めてくれる。フィクションには,そういう良さがあると思う。これがイスラエルとパレスチナの問題だといったら,みんな状況を見失ってしまうんだ」と語る。これは,筆者も非常に同感である。
フィクションだからこそ伝わりやすいテーマはあると思うし,それと同時に,エンターテイメントに落とし込むことで,始めてより多くの人に伝わるという部分も少なからずあるのではないだろうか。三国志や史記などといった中国の故事を読み,登場する人物の生き様を人生の教訓にするのだって,本質的には同じことだろう。
ゲームを例に挙げてみよう。ゲームと学習というキーワードで話をしていくと,大抵は「ゲーム感覚で英語を覚えられます」とか「脳の活性化が」みたいな話題になりがちだ。それはそれで構わないのだが,例えば「シムシティ」というゲームを遊ぶことで,都市計画の機微や公害について示唆を得たりもできるわけで,それだって重要なゲームを通した学習の一つであるはずなのだ。
同様に,例えば自然環境破壊の問題についての講義をアニメーションで見せたりするのではなく,ナウシカの葛藤を通して,視聴者に自然と人類の関係について疑問を投げかけることも,フィクションなればこそできることだと思うし,それは本作にも通じることだ。そしてそうした表現(クリエイティブと言い換えてもよい)は,ただ「食べやすいだけのコンテンツ」では,絶対に不可能な表現なのではないだろうか。
いずれにせよ,ガンダムUCは,前述した「コンテンツのお粥化」の風潮に真っ向から挑んでいる作品であり,ガンダムだからこそ可能な“噛み応えのある物語”を,ガンダムというブランドを使ってより多くの人に伝えようとしているコンテンツである。
そこに作り手の矜恃のようなものを感じると同時に,だからこそ心に響く面白さを持ち得ているのだと思う。本作が,単にガンダムというブランドにぶら下がっているだけの“商品”であったなら,こんなにも魅力的に感じることはなかっただろう。
「余暇産業」とも言われ,生活に直接必要ない消費財を生産/提供しているコンテンツ産業。筆者もエンターテイメント業界に関わる一員として,「エンターテイメントはなぜ必要なのか。あるいは本当に必要なのか」を,ことあるごとに悶々と考えてしまったりするわけだが,ガンダムUCという作品を観て,改めてコンテンツというもののありように気付かされたような気がする。
ガンダムに出会い,ハマってからもう二十数年が経つが,ガンダムから学べることはまだまだ沢山ありそうだ。
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