連載
『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』
著者:伊藤章治
版元:中央公論新社
発行:2008年1月
価格:882円(税込)
ISBN:978-4121019301
食べ物に関する時代考証には,どうも特有の難しさがつきまとうらしい。史料として現物が残るはずはないし,飼育/栽培品種は収量や経済価値によってどんどん置き換えられる。そして何より,あまりに生活に密着しすぎていて,その食べ物がその時代にまだなかったということが,しばしば忘れられてしまうのだ。
個人的にはつい先日も微妙な体験をした。近世初頭のヨーロッパ社会をベースにしたファンタジーアニメにジャガイモが登場したのは,まあぎりぎりセーフの可能性があるとしても,その数百年前にも食べられていたことを示唆するセリフが流れるに及んで,少々当惑した次第だ。原作小説には当たっていないので深い追及はできないが,虚構とはいえ子供達が喜んで見るアニメ作品である以上,細心の注意を払ったほうがよいとは思う。
そんな前振りで紹介するのが,伊藤章治氏の『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』だ。南米産の農作物であるジャガイモが,大航海時代以降どう世界へ広がっていき,それぞれの社会でどんなインパクトを発揮したかを解説する本である。
ご存じのようにジャガイモは現在のペルー原産で,アンデス高地,インカ帝国住民の食生活を支える重要な作物だった。そうした出自ゆえ,地味の乏しい冷涼な土地でも栽培可能とあって,ヨーロッパ世界ではアイルランドや北部ドイツ,シベリアなどで「貧者のパン」として大いに活躍する。
しかし,ヨーロッパ人がこの作物の価値を直ちに認めたかといえば,答えはノーだ。それまで根菜類を栽培する文化がなかったヨーロッパでは,当初ジャガイモが不気味に映ったらしく,食べると病気になるといった迷信が流布されて,普及は進まなかった。そうした経緯もあってか,ジャガイモがいつ誰によってヨーロッパにもたらされたか,いまもって不明というのが,まずは驚くべき話だと思う。
例えばドイツ西部では,三十年戦争による国土の荒廃を経た17世紀半ばにようやく普及しているし,ドイツ東部はさらに保守的で,普及のきっかけになったのはフリードリヒ大王の「ジャガイモ令」(1756年)だったりする。また,フランスでの普及に一役買ったのはルイ16世と王妃マリー・アントワネットだったというから,本格的に栽培されたのは革命後であり,作付けが飛躍的に伸びたのもナポレオンによる奨励あってのことだ。
ロシアでの普及はさらに遅く,ピョートル大帝(在位1682〜1725年)による奨励や,七年戦争におけるドイツでの見聞を経ても,必ずしも一般化していなかった様子。19世紀初頭のシベリア開拓で有用性が認識され始め,1840年の飢饉で代用食糧としてメジャーになるという経緯が必要だった。
一方「ジャガタライモ」という名前が示すように,16世紀に「ジャカトラ」(現ジャカルタ)を経て日本に入ってきたジャガイモは,江戸時代を通じて普及していく。この本では日本各地に残るジャガイモの方言についても系統立てて解説しているが,個人的に興味深かったのは「セーダイモ」だ。これは,17世紀末にジャガイモ栽培を奨励した甲州の代官,中井清太夫にちなむ呼び方である。
名高い人類学者マルセル・モースに師事した山田吉彦(きだ みのる)は,太平洋戦争の疎開中に武蔵野の山村でフィールドワークを行い,その結果を『気違い部落周游紀行』というエッセイにまとめた。この本はこの本で,明治以前から受け継がれてきた日本の村の驚くべき慣習を活写した,注目すべき労作なのだが,そのなかでジャガイモは「せえだ」と呼ばれている。
その語感から,間違いなく日本語的な語源を持つ方言と思われたのだが,どうにも分からないままここまで来た。その疑問が氷解した次第である。
『ジャガイモの世界史』には,家畜飼料としてのジャガイモがヨーロッパの景観を変えていったこと,アイルランドにおける古典的な開拓農地の姿,ドイツの農園文化とジャガイモ,日本の長崎におけるジャガイモの二期作,ゴルバチョフ政権末期におけるソビエト保守派のクーデターで計算されたジャガイモの収穫時期など,さまざまなエピソードが盛り込まれている。著者が述べているとおり,インカ帝国からピサロが持ち帰った金銀などより,ジャガイモのほうがおそらく歴史的な意義は大きい。
そんな歴史の陰の立て役者に思いを馳せつつ,近世から近代にかけての時代を扱ったゲームをプレイしてみると,いっそう興が増すことだろう。
温暖な長崎で作るには,品種改良が重要だったそうで
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