連載
『ラヴクラフト全集 3』
著者:H・P・ラヴクラフト
訳者:大瀧啓裕
版元:東京創元社
発行:1984年1月
価格:672円(税込)
ISBN:978-4488523039
クトゥルー神話というと,昨今では小説,映画はもちろん,アニメやゲームの背景設定にまで利用されている。よく知られているようにその源流は,H・P・ラヴクラフトが戦間期アメリカで創り上げた一連の物語であった。人間の理解を超えた名状しがたい存在あるいは神々。禁忌の知識がしたためられた古の書物。家系にひそむ忌まわしき謎。これらはすべてクトゥルー神話の定番要素である。
そもクトゥルーという単語にしても,英文表記はCthulhuとなり,これをどう発音するかは定かではない。なぜなら彼らは人間とは完全に別の存在であり,人間の発音能力や言語理解能力とはまったく異なる系統を持っているのだから――クトゥルーというのは,人間が人知を超えた神々の名前をどうにかして書きとめようとした努力の結果の一つにすぎないという設定だ。
こういったギミックに惹きつけられたファンは多く,シャーロキアンならぬ“ラヴクラフティアン”もまた多い。日本では佐野史郎が熱心なラヴクラフティアンだし,菊地秀行や栗本 薫といった作家がクトゥルー神話を踏まえた作品を書いていることは,先刻ご承知だろう。もちろん海外でも(というか海外にこそ)ラヴクラフトに影響を受けた作家は多く,幾多の作家がそのモチーフを直接使った作品を書いている。
だが,例えば不定形で茫洋と光る奇怪な怪物とか,南海の孤島で発見された陶片に刻まれた謎の記述とか,どこか魚類を思わせる蛙臭い老人とか,そういった個々のギミックは,クトゥルー神話を文字どおり神話として形づくる要素ではあれ,その本質ではないように思える。同様に「どこそこの神話がクトゥルー神話のキーワードと通底している」「どれそれといった歴史的事件の背後にはクトゥルー神話との関連性が窺える」といった後付け的な遊びは,非常に楽しくはあるものの,やはりかの神話体系の根幹ではない。
このことは,ラヴクラフトの短編の一つ,「アウトサイダー」を読んでみるとはっきりする。「アウトサイダー」は収録されている「ラヴクラフト全集 3」において文庫本10ページ程度の短い作品で,一般的にはクトゥルー神話体系に含まれていないと考えられている。だが,この作品にはおそらくラヴクラフトの世界観が,かなり剥きだしに近い状態で書かれている。
ネタバレを承知で,「アウトサイダー」を簡単に要約しよう。筋書きはこの短編の面白さの本質ではないからだ。
生まれてこのかた書物の記述以外で人間に会ったことがなく,ひたすら孤独をかこっていた主人公は,あるとき自分の館を抜け出すことに成功し,ついに自分以外の人間が集まっている場所までたどり着く。そこでは華やかな宴が催されており,主人公は誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように会場へと足を踏み入れる。そのとたん,集まっていた人々は悲鳴を上げていずこかへと逃げ散ってしまった。独り残された主人公が会場にあった鏡を覗き込むと,そこにいたのは醜悪なる怪物であった――。
論理的に考えればツッコみどころの多い(自分が化け物じみた姿をしていることくらい,自分の館にいるときに気がつくもんじゃないの? 少なくとも書物の中の人間と自分が全然違う姿だってことくらい気がつくだろ普通? とか)作品であるが,そうした一見して無粋な横槍も含めて,この作品には考えるべきことが多い。
この作品で語られるのは,いってみれば排斥感であり,自分が世界から隔離されているという断絶感である。そしてその断絶と孤独の理由は,結局は自分が醜悪な狂気に塗れているからだ,という自虐的な結論が語られる。
だが,本当に? 絢爛たる舞踏会に参加していた人々は,どれくらい主人公と違っていたのだろうか? 作品はそれについては何も語らない。主人公はアウトサイダーとして場を乱してしまったが,それ以上の狼藉はしていないし,事件のあと「自分は隠れ住むべきなのだ」と割り切ってすらいる。狂っていたのは主人公なのか,それとも人々なのか? 判断できる材料はないのだ。
「狂っているのは私じゃない。世界が狂ってるんだ」というフレーズがあるが,例えばそれを事実ではないと裏付けるのは非常に難しい。そして「アウトサイダー」においてこの構図は,主人公が自らを怪物であることを認めるという結論に収束する。だがそれはつまり,この作品の出した回答が「自分が狂っているのではなく,自分を受け入れない世界が狂っているのだと思ったけれど,世界も自分も狂っていた」という,醒めたものだったということではないだろうか。
先に出した「無粋な横槍」も,ここにおいて重要な問いであることが分かるだろう。結局,人間は自分が怪物的だと認識することなど基本的にできないし,その振る舞いや価値観も含めてどんなに怪物としか言いようのない証拠があったとしても,それを認めたりはしないのだ。だがそれでも,何かのはずみで,ふっとその認識の扉が開き――そこに怪物がいることを,人間は知る。けれど,突き詰めれば万人は万人に対するアウトサイダーでしかないという認識は,人間が耐えていくには困難すぎる重荷となる。
この構図は,ラヴクラフトが書いたクトゥルー神話を貫く一つのテーマであるように思える。「世の中のすべてが狂っている」という極限の認識そのものを題材にするだけでなく,人間がその認識に至る瞬間を巧みな筆致で描き出していったからこそ,現代においてもクトゥルー神話は幅広い支持を受けているのではないか。クトゥルー神話において,世界はクトゥルーの見る夢であり,人間はその夢の中を蠢く影にすぎないとされる。この「クトゥルー」を,「クトゥルー的なる他者達」と置き換えたとき,そこにラヴクラフトの抱いていた絶望と孤独が垣間見えはしまいか。
「コナン」を書いたハワードは,ラヴクラフトを師とも兄とも尊敬しており,距離的な問題から文通が主ではあったが,深い交流があった。実際コナンには名状しがたい奇怪な怪物や神々がしばしば登場する。
そんななかで,ハワードが初めてクトゥルー神話に触れ,強い衝撃を受けると同時に天啓に導かれるようにして書き,恐る恐るラヴクラフトに送って評価を乞うたといわれる作品がある。概略を紹介しよう。
あるところに忌まわしい姿をした怪物がいて,その怪物はたびたび地震を起こしていた。人々は怪物の存在を恐れ,また地震に悩んだ。そこで,ある男が怪物を倒そうと立ち上がった。彼はそのままでは怪物に勝てないと考え,まずその怪物と同じくらい巨大な大蛇を打ち倒し,毒を集めた。そして巨大な弓を作り,巨大な矢を何本も作って,崖の上で怪物を待ち伏せした。しばらくして現れた怪物に,男は次々と矢を撃ち込んだ。もだえ苦しむ怪物! だが怪物はまだ倒れない。そこで男はこれまた巨大な槍を手にし,穂先に毒を塗って怪物に踊りかかった。男の一撃は怪物の息の根を止めたが,いまわの際に怪物は触手を振り回して男を打ち据え,男もまた致命傷を負って倒れたのだった。男の死に顔は,満足感にあふれていたという……。
――ラヴクラフトファンが読んだら開始数行で「これはまったく違う」と言いたくなる作品である。筆者もそう思う。だがこれを読んだラヴクラフトは,我々にとっては意外にも,「こういうのも良い」と評価している。
いくつか推測できることはある。まずラヴクラフト自身,クトゥルー神話というギミックを何よりもエンタテイメントとして考えていた。その要素をうまく使ってハワードなりの新しいエンタテイメントを創り上げたことは,評価できるであろう。
また,ハワードとラヴクラフトは,心情的に近い部分が多かったのではないかとも推測される。30歳でピストル自殺したハワードの,繊細さと孤独を恐れる精神は,ラヴクラフトにとって比較的近しいものではなかっただろうか。
もっとも,ラヴクラフトにとってはハワードにせよ,クトゥルーというアイデアを利用したほかの作家にせよ,結局はアウトサイダーであって,彼らが何をしようが知ったことではないし,自分や自分の創作には関係がないと思っていたのではないか,とも考えられる。いまとなっては,真相は分からないが。
人の人に対する根源的な理解不能性と恐怖。いずれにしても,我々の周囲には彼ら「早すぎた現代人」の創作物と,その派生物があふれている。彼らにとってパーフェクト・アウトサイダーである我々がこれらとどう向き合うのか,もう一度考えてみてもよいのではなかろうか。
ライトノベルにすら現れる現代の皮膚感覚なわけです。
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- 関連タイトル:
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