[DICE 2006]リチャード・ギャリオット 〜 兄弟で歩んだ25年
クリエイティブな才能を持つ,エキセントリックなリチャード・ギャリオット氏(左)と,経営能力で弟を縁の下から支えてきたロバート・ギャリオット氏
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AIAS(インタラクティブ芸術科学アカデミー)において「ゲーム開発者の殿堂」入りを果たしたRichard Garriott(リチャード・ギャリオット)氏。1999年の「Ultima IX: Ascension」以来,長きにわたってフロントラインから遠ざかっているものの,UltimaシリーズでRPGジャンルをリードしてきた世界的なゲーム開発者である。 とくに1985年の「Ultima IV: Quest of the Avatar」は,ゲームの深みという点で当時は考えられないほど複雑で,日本でもリリースされて多くの固定ファンを開拓するに至った。ゲーム性だけでなく,グラフィックスやインタフェースなどでもUltimaシリーズは常に時代の最先端であり,さらには「Ultima Online」において,MMORPGの商業的な成功の可能性を導き出した功績は大きい。
今回のD.I.C.E.サミットでは,そんな彼の25年を超える経歴を,ビジネス面で支えてきた兄Robert Garriott(ロバート・ギャリオット)氏と共に振り返るという内容で,「25 Years of Working Together」と題した講演が行われた。以下,ややこしいので敬称を抜き,それぞれリチャード,ロバートとして記載する。
古参ゲーマーではない読者のために,リチャードのバックグラウンドを説明しておこう。彼はイギリスのケンブリッジで,ギャリオット家の3男として生まれた。父は,当時ケンブリッジ大学に在籍中のアメリカ人科学者Owen K. Garriott(オーエン・K・ギャリオット)氏であり,後にNASAスペースラボの宇宙飛行士として60日間の宇宙滞在を経験している。リチャードの母Helen(へレン)は地元テキサスで活動する芸術家。年の離れた次男のロバートは名門ライス大学を卒業後,マサチューセッツ工科大学やスタンフォード大学ビジネススクールで博士号を取得するなど,弟に言わせると「Ph Dフリーク」な勉強家だった。
リチャードの処女作「Akalabeth」。パッケージアートは,芸術家だった母へレンが描いた
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ロバートが大学に通っている1974年頃,イギリス訛りから「ロード・ブリティッシュ」というあだ名をつけられていたリチャードは,在籍していた学校に導入された「テレタイプ」(印刷電信機)に熱中し,アルファベットをキャラクターに見立てた初期型のゲーム制作に熱中するようになった。高校卒業後の夏,家の押し入れを改造した勉強部屋で,Apple IIを使って6週間で生み出したのが「Ultima 0」ともいわれる「Akalabeth」である。 この作品は,もともとは売ることを考えて開発したのではなかったが,当時アルバイトをしていたコンピュータショップでプラスチックバッグ入りのディスクを置いていたところ,California Pacificという会社の手に渡ることとなった。母ヘレンがパッケージアートを担当し,1作につき5ドルの配当が約束されたのだ。 リチャードは「売り物になるなんてまったく予想もしていなかった」と回想するが,Akalabethは実に5万本もの販売実績により,リチャードの懐に15万ドルもの収入が転がり込むこととなった。「今までで,最も簡単に稼いだ15万ドルだったね。10代の若者が6週間の遊びで作ったものが,宇宙飛行士の父の年収を超えちゃったんだから」とリチャードは笑いを誘う。
これに味をしめたのか,California Pacificブランドから1981年に「Ultima I: The First Age of Darkness」がリリースされる。しかし,売り出したばかりの頃にCalifornia Pacificが倒産してしまい,その後の開発計画はおろか,開発経費も支払われないこととなった。 そこでリチャードが期待したのが,当時スタンドフォード大学で学んでいたロバート。「お金を払ってくれないんだけど,兄ちゃんの知識で解決してくれよ」という電話一本で,ロバートは同社のあったカリフォルニア州のサクラメント市へと向かった。もっとも,倒産してしまったため中古車以外は何もなかったらしいが,そこはロバートの才気で「California Pacificの知的財産と引き換え」という条件を飲んだ。 Ultima Iはその後,同じカリフォルニアのOn-line Systems(後のSierra On-line)に引き継がれ,「Ultima II: The Revenge of Enchantress」も同社から発売。しかし,またまた金銭問題が起こって,ロバートが派遣されることになったという。このような経緯もあり,ロバートが社長,リチャードがクリエイティブ・ディレクターとしてOrigin Systemsが設立されることになったのだ。1983年12月にリリースされた「Ultima III: Exodus」は,実にOriginのファーストタイトルだった。
この時期にも,リチャードとロバートの間ではさまざまな問題があったという。例えば,ロバートの奥さんはアメリカの電話会社AT&Tの幹部という恵まれた役職にあったことから,しばらくの間は兄弟でアメリカ北東部に移住してオフィスを構えていたこともあった。ところが,根っからのテキサス育ちだったリチャードは,冬は雪が積もる気候に慣れることができず,イライラすることも多くなっていたという。 ロバートは言う。「冬の最中に雪も降っているというのに,オースティン(テキサスの州都)で暮らしていたときと同じような格好をしながら,チキショウ寒すぎるじゃないかって悪態ついているんですよ。ジャケットくらい着ればいいのに」。 実際,このころの兄弟仲は最悪だったらしく,いつも昼ごろになってようやく出社していたリチャードは,やがては昼を大幅に過ぎてから顔を出すくらいになってしまう。言い訳は,いつも「なんか想像力がかき立てられないんだ」というものだったらしい。 ところが,そんなある日,突然ロバートのもとに母親から手紙が来たという。そこには,こんなことが書きとめられていたとロバートは続ける。 「ロバート。リチャードは,私と同じ芸術肌な人間で,仕事にノっているときとノらないときがあります。だから,そんなことで彼を責めるのはやめなさい。あなたの妻だって良い仕事に就ける人材なんだから,オースティンでも簡単に見つかるわよ。あと,ゲームを作っているのはリチャードなのに,なぜあなたが社長なの?」 結局ロバートが折れて,チームごとオースティンに舞い戻ることになった。リチャードが,ママっ子であったことが分かる面白いエピソードだ。このようなやり取りが公開され,会場の一同は大爆笑であった。
とはいえ,テキサスに帰った後も兄弟喧嘩はなかなか終わらず,あるときは鉛筆1本の取り合いからオフィスで乱闘を始めてしまったこともあったらしい。さすがにこのときは部下達が心配し,彼らもその馬鹿さ加減に気づいたとリチャードは説明する。 しかしロバートに言わせると,リチャードの奇行はオースティンでも続き,リチャードの邸宅でのハロウィーンパーティのためのダンジョン作りは,2年に一度のお祭りとしてエスカレート。ある年は,部下を引き連れて7月(ハロウィーンの3か月前)から大工仕事に取り掛かる有り様で,こんなことではいつまで経っても本業は終わらないと,ロバートは怒鳴り散らしたとか。「確かに行き過ぎた遊びだったけど,ロバートの仕事は会社と僕を含めたメンバーを管理運営していくことだからね。僕だって,ダンジョン作りは夜に限ることで妥協したんだ」とはリチャードの弁である。
リチャードは,「このように開発者が思いっきり楽しめるということからも,Origin Systemsというのがいかに開発者のためにある会社だったのかが,よく分かるでしょう」と続ける。しかし,フルモーションビデオを使った「Wing Commander」を例に出すまでもなく,Origin Systemsが手がけるソフト群の開発費が増大していったことや,ゲーム開発の度重なる遅延,Apple IIからWindowsへの乗り換えに遅れたことなどで運営には行き詰まり,二人はElectronic Artsに買収される決定を下す。安定した資本だけでなく,Bullfrog Productions,Westwood Studios,Maxisなど,名だたるゲーム開発会社を支えていたのがElectronic Artsであり,ロバートも「自分達でやっていけない以上,(この買収が)当時の“ベストチョイス”だった」と語る。 Electronic Arts時代に開発した「Ultima VII」は,Ultima IVと同じくらいリチャードのお気に入りらしい。この頃には,リチャードの想像力は確かにかき立てられていたらしく,あの「Ultima Online」の企画も社内で持ち上がっていた。ただ,前例のないゲームだっただけにElectronic Arts本社の理解を得るのは至難の業だったらしく,人員が補強されないまま,地道にプロトタイプ作りに励んでいたそうだ。 リチャードの考えが間違っていないと証明されたのは,初期βのテスターを募集したときのこと。開発費の捻出に苦労していたこともあり,「5ドルを送ってくれればβ版を送ります」と公式サイトで発表したところ,予定人数をはるかに超える5万人ものゲーマーが応募してきたのだ。この反響によって,Electronic Artsはサーバーなどのインフラを整える決心をし,商業的には世界初の大ヒットMMORPGといえるUltima Onlineが世に出ることとなった。
左:リチャードが最も好きな作品の一つと呼ぶ「Ultima IV」。徳(Virtue)システムの導入など,当時のゲームにはない深みが生まれた名作だ
右:「Ultima VII」も,リチャードお気に入りの作品であり,どこか「Ultima Online」を思わせるグラフィックスは,当時としてはかなり斬新だった
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最新作「Tabula Rasa」は,リチャードに言わせるとスピード感溢れる新しい感覚のMMORPG。現在の市場に一石を投じることになるだろうか
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ギャリオット兄弟がElectronic Artsを去ることになった経緯については話されなかったものの,二人ともしばらくの間は自由の身を満喫し,とくにリチャードは南極旅行や海底調査用潜水艦での航行をするなど,相変わらずエキセントリックな遊びに興じていた。この頃,彼らに近しい人物が「リチャードはゲーム作りに興味がなくなっちゃったのかなあ」と嘆いていたのを筆者は聞いている。 しかし,やがてはゲーム業界に戻ることとなり,リチャードとロバートは再び協力してDestination Softwareという独立した開発チームを興した。その数か月後にめぐり合ったのが,韓国株式市場で上場したばかりのNCsoftである。ここでの新作「Tabula Rasa」は,当初の予定を大きく逸脱して4年の月日が費やされているが,やはりこれも遅延常習犯のリチャードにとっては「計算」のうえでのことかもしれず,安定したパトロンを得たという面ではOrigin SystemsがElectronic Artに買収されるときの状況と似ている。つまり,2001年の時点では,NCsoftこそギャリオット兄弟にとっての“ベストチョイス”だったというわけである。
最初,講演でこのような話題を始めた理由は,ひょっとしてNCsoftから独立する兆しでもあるのかと詮索したが,どうやらそれは筆者の思い過ごしだったようだ。NCsoftから次期リリース予定の「Auto Assault」のデモを紹介し,この会社がMMORPGというジャンルの開拓にいかに貢献しているかをリチャードは代弁していた。今が2回めの「人生に一度の機会」(Once in a Lifetime Opportunity)なのだと言う。 リチャードは,「World of Warcraft」は大成功を収めたが,しかしあれはUltima OnlineやEverQuestが開拓したゲーム性をパーフェクトに洗練しただけだろうと手厳しく批評し,「World of Warcraftのようなソフトは,あくまで競争相手とは見ておらず,市場規模を膨らませる歓迎すべき同業者でしかない」と話した。 また,業界に対しては「現在のMMORPGはテンポが遅すぎる。また,MMORPGの開発コストが年々増えているのとは反比例して成功するソフトの割合が少なくなっており,数年後には五つの会社が残っているかどうかではないか」といった予見を述べた。そして「もっとサックリと遊べるようなゲームのコンセプトを突き詰めたのがTabula Rasaなのです」と,年内にリリースされそうな彼の新作の独自性を強調していた。
Rockstar Gamesのハウザー兄弟(Sam and Dan Hauser)を例に出すまでもなく,ゲーム業界では兄弟揃って活躍している人も多い。しかし,25年間以上にわたって同じ業界で過ごしてきたギャリオット兄弟は,数々の仲違いを繰り返しながらも,お互い自分にない才能を理解し,尊重しながら支え合ってきたことが,ありありと見てとれる。 リチャードは,「最後のオチとしてはありきたりですが,兄弟で同じ業界にいることは悪いことではありません」と締めくくった。これからも続くであろうとロバートとの二人三脚で,再びゲーム業界で頭角を現すことになるだろうか。(奥谷海人)
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